第3話 亡霊と泣き声
───事のあらましはこうだ。
寺の住職がある晩、
「ごめんください、お坊様」
草木も寝静まるような夜更けに戸口から女の声が細々と聞こえてくる。
住職は不審に思いながらも、仕方なしに玄関先へ向かった。
「こんな夜分に明かりも持たず、どうされました」
女の着物には至る所に黒い泥のようなものがついており、乱れた髪が眼前に散らばる。
更に手拭いを巻いていたので
只事ではない女の出立ちをまじまじ見、ふと手に抱えている物に視線が留まった。
女が抱いていた布から黒いものがちらりと見え、住職は声を失うほど
「お坊様、こんな
実は少し前に私の息子が高熱やら吐気やらを患いまして。
それでも出来る限り手は尽くしたものの、
女はか細い声で、はらはらと涙ながらに語る。
「私には夫はおりませんで、親兄弟も皆早死にでして、この世にもう大した未練もございません。
──なるほど、女の語る理由は想像に
ふと小用に起きた事を思い出した住職は、女の話がひと段落したところで再度催したもので、悪いと思いつつも、
「お話は相わかりました。ところで悪いがちょいと用を足してきてもよろしいかね」
と、女を居間に残し厠へ向かった。
口を挟む隙もなく進む話に、住職は内心動揺していた気持ちを落ち着けて居間に戻ると、女の姿も赤子の亡骸も
おーい、と呼びかけるものの気配すらない。
住職はぶるりと震えた。
腕の皮がざわざわ
仕方が無いのでその日はそのまま床につき、未明頃には
翌朝弟子の1人がなりふり構わず住職の寝室に飛び込んできた。
「
実は子供の泣き声がうるさくてうるさくて眠れませんで。
ところが同室の者たちに聞きましたら、皆そのようなもの聴こえないと申されまして。
私には犬の遠吠えなど比べものにならぬほどに
とはいえ、どこかの家の子供が寝付けずに夜通し泣いていただけかもしれない。
はたまた夜泣きする赤子に観念した親が、子を
昨晩見たものはすべて夢の類で、きっと何かの偶然に違いない。
春雲は坊主を適当に言い包め、自身もきっとそうであるはずと思う事にした。
しかし住職の楽観的な願いは叶わず、その日の晩、今度は朝方訴えて来た弟子以外…──それどころか春雲自身も含めみなその泣き声に戸惑う事になる。
明くる日、やはり夜半を回ったころ、どこからともなくとてつもない大きさの泣き声が聞こえてくる。
それは確かに赤子の泣き方ではあるものの尋常ではないけたたましさにも関わらず、どういう訳か寺をぐるりと見回るも人影どころか動物すら見かけない。
明らかに平常とは言い難い様子に、寺の者たち一同すぐさま春雲の元へ介した。
「春雲様……、やはり様子がおかしくございます」
「うむ、誰か本堂の方を見てきてはくれないか。
もし仏さまに万一の事があっては
「……」
残念ながら春雲の呼びかけに応じるほど胆力のある者はおらず、怖がる弟子らの手前仕方なく自ら本堂へ向かうべく、春雲はため息交じりに立ち上がった。
さして距離もない道すがら、ふと視線を感じ何の気なしに門戸の方を見やった。
すると先程確かに無人だったはずの場所に、昨晩の女らしい人影がやはり赤子の大きさくらいの布を抱えて
住職はその不気味な出立ちはともかく、足がある事にひとまずほっとし人影へ近寄った。
「……そこのお方、よもや昨晩いらっしゃった方でしょうか。
こんな夜更けになぜまた……」
とたんに赤子は、その身体に見合わない大声で泣き叫んだ。
「ゥゥ…ア、……ゥァァァァアアあァあ──────!!」
女は、泣き叫ぶ我が子を先ほどよりも
住職は眼前にある母子の様子に、己の目を疑った。
「お前さん、そ、その子は……」
──いや、そんなはずはない。昨晩見かけたこの子は確か死体だったはずだ。
混乱する住職の呼びかけに反応するように女はゆっくりと顔を上げると、住職と目が合った。
………ずるり。
乱れた髪の合間から見えたのは、腐って赤黒く変色した顔の肉片が落ちる様子だった。
ボド、ボドボドボド………───
つんざくような赤子の泣き声は、ともすれば怯えているようでもあった。
住職は目を背けて逃げ出したい本心を抑え、見開いた目を赤子の方へおそるおそる向けた。
女から落ちた肉片は赤子の顔にも落ちる。
…いや、落ちていたのだと思われる。
抱かれた赤子の大きさは思っていたよりずっと小さく、女と同じように肌は赤黒くなり腐乱し、ドロドロとした皮膚は少しずつ溶け落ちていく。
遺体の目と口は
開かれた目や口からは時折なんらかの虫が、崩れる肉片を惜しむように這ってでてくる。
──母子揃って死んでいるのは明らかだった。
しかしそのけたたましい泣き声は、間違いなく腐敗した赤子の遺体の喉から響き渡っている。
住職は今度こそ心底恐ろしくなり、悲鳴をあげ一目散で弟子達の待つ住居へ逃げた。
翌晩もその翌々晩も、同じように泣き声は耳の奥を裂くように響き、寺の門には相変わらず茫っと人影が佇んでいる。
その後も何とか事を納められないかと
恐怖と騒音に耐えかね住職は弟子たちと相談したところ、弟子の一人が浦田家に持ちかけてみてはと提案した。
浦田といえば、高名な磁器やら茶器やらの瀬戸物を
成程それならば、この際神でも仏でもどちらでも構わないから
達筆だが鬼気迫る気配を滲ませる文面にも関わらず、
「とはいえ、人じゃない可能性もなきにしもだからなぁ。
実際見にゃあなんとも言えん」
「人以外なら…」
「ふむ、なら
どのみち明日には一度向こうさんへ出向くよ」
董路と
董路はふと思い出したように肩をぽんと叩いた。
「ん、董路、お前それは何だ」
肩を軽く叩くと、先ほどまで何もなかったはずの当時の手元に雀がぽつんと現れた。
「ふふ、やっぱりなぁ。
うちと無縁のやっちゃんでさえ視えてたんだから、父上たちならより解るよな」
「…それも
「私にはただの雀にしか見えませんが…」
珍しく興味津々といった様子で
「ふふ、二人してそんなおっかねぇ顔しなさんなよ。
この子は恐らく障りとは
おれは障りを祓えるんじゃねぇかと踏んでる。
不浄なもんじゃねぇけど、今朝気づいたら側にいておれにも出所がわからん」
「不浄ではないなら、霊障は
時一朗は
「それも不明だ。おれは平気だと思ってはいるが何もわからん。
だから依頼ついでにこっちからも相談なんだが、蔵の鍵を貸して欲しい。
それと
「無論だ、鍵はここにある。
史葉さんの所へは
あちらの都合がつけば時間はいつでも良いか?」
時一朗は当時の相談に、何の疑いもなく文机の引き出しから鍵を取り出し差し出した。
「ああ、助かるよ。
まぁひとまずこの雀についてはおれが預かるから、安心してくれて構わねぇ。
依頼はさっきの段取りで良いかい」
今度は時一朗と晴劤がふたり揃って頷く。
「他に何かあれば直ぐにお言い。
……頼んだよ、董路」
時一朗から差し出された鍵を受け取ると、董路は軽口を叩いていた数分前とは打って変わって神妙な面持ちとなった。
董路は
そしてやはり、雀の姿は消えていた。
*お話の序盤ですが、ここまでお読みくださりありがとうございます。以降は更新ペースゆっくりになります*
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