第270話
プライドの高いグラハムが全面的に認めている、という点とコンサートでの演奏の実力を加味して、背筋を汗が伝う。纏う空気は柔らかなのに。油断させておいて一気に喰らいつく蛇、のような。気が抜けない。本能がそう告げているようで。
しかし当のカイルは口内を舌でモゴモゴと弄り、緊張感のかけらもない。首を傾げてみたりして、なにか良い言い訳がないか脳から捻り出そうとしている。そして。
「うーん、そうなんだけどね。グラハムにもこの学園のピアノ、自慢したくて。調律もそうだけど、いいピアノが揃っている。僕らの行ってた音楽院より全然いい。だからさ、キミとここで話してみたかったんだよね」
特に浮かんでこなかったので、簡素に伝えてみる。単純に弾きたかったから。そのついでに呼んでみただけ。理由は本当にそれだけ。来れなかったら来れなかったでそれはそれでいい。よく考えたら、迷惑なヤツだな、自分。
そんなところだろうと思った。もう怒る元気ももったいないと諦めたサロメは、ドアに向けて歩き出す。
「アホらし。帰るわ」
キアラのところにでも寄って糖分を補給して帰ろう。そうしよう。というかこれ、呼び出されたってことはバイト代出るの? 社長に聞いてみようか。
どうするか迷ったが、道具も持ってきていないし、やれることもないのでランベールもサロメのあとに続く。
「俺も帰ります。では、よろしくお願いします」
まぁ、連絡があればアトリエなりなんなりに電話でもあるだろう。それに。調律以外にも、ピアノについて学びたいことは山のようにある。実力のあるピアニストは少し、どこか変わった人物が多い。その類なのだろう、と判断した。
バタン、と閉まったドアを見つめながらひとり、カイルはぼーっとして室内を意味もなく見つめてみる。静かだ。防音だし、それもそうか。
なぜだか思い出すのは、かつての音楽院での日々。明らかに周りの人達のレベルは高かったが、切磋琢磨できたいい思い出。技術的にも、人間的にも、精神的にも一番の成長を感じたことが、なんだか遠い日のように。
とか言ってるわけだが、さて。このあとはどうしたものか。目に映るのは当然ピアノ。そして。
「……彼女の探しているピアノ。この学園にもないメーカーのようだね。仕方ないか、生産数は相当少ないものだし。僕も実物を見たことはない」
だが、ミケランジェリの話。ヒントは充分に与えた。もしかしたらすでに勘づいているのかもしれない。少し出過ぎた真似をしてしまったかもしれないけれど。
「やれやれ。僕を挟まないで、二人でやってほしいものだ」
僕も帰ろうか。でもあと一曲。イスに座り、思い浮かんだ曲を。
そうして奏でられるのはヴィルヘルム・フリーデマン『 一二のポロネーズ 第五番』。この優しい変ホ長調の曲を。サロメ・トトゥに捧げる。
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