第267話

 ブリジットとグラハムのいる場所とは違うレッスン室。同じ作りのその部屋で、違うものは置かれているピアノのみ。ベーゼンドルファーのモデル二九〇。いわゆる『インペリアル』と呼ばれる最上級モデル。そこで贅沢なリサイタルが行われていた。


「『一音でも失敗すると死ぬ』ピアノ曲。ま、あれはサスペンスというよりコメディだけどね」


 弾き終わりの余韻をぶち壊す、ニヤけたサロメ・トトゥの感想。調律する予定はないが、呼ばれたので来たわけだが。


「それは同感。なぜか譜めくりがいなかったり、ひたすらイライジャ・ウッドが走り回ってたり。ご都合主義だけど、だがそれがいい。映画はあれくらい頭空っぽにして観なきゃ」


 イスから勢いよく立ち上がったついでに作品を思い返すカイル・アーロンソン。そういえば一緒に観ていたはずのグラハムは、気づいたらどこかに消えていたっけ。


 その曲名は『ラ・シンケッタ』。実在するクラシック曲ではない。映画『グランドピアノ』で主人公と恩師の二人しか弾けない、と言われた超絶技巧。作曲したのはエウヘニオ・ミラ。この映画の監督も務めた作曲家。


 この曲はインペリアルでしか弾けない。せっかくこの学園にも置いてある、とのことなので弾いてみた。楽譜は存在しないので耳コピ。失敗したら死ぬらしいので、とりあえず間違えないように慎重に。


 この曲がどうこうよりも、まずサロメには確認しておきたいこと。


「つーか。あんたやっぱ暇なの? 来なきゃよかったわ」


 ただ弾きたいだけならこいつに用はない。探し求める人物。そしてピアノ。その情報。しらを切っているが、きっとまだなにかを知っているはず。そのために付き合ってやってるだけ。


 鍵盤蓋まで丁寧に閉めて、一度ハンカチで手を拭うカイル。


「まぁまぁ。そう言わずに。ところで『低いCがシャープ気味』だね。このピアノ」


 そうして文句をつける。が、これは嘘。


「んなわけあるか。そりゃ映画の話。あたしが調律してるのになるわけないでしょ」


 映画で主人公が指揮者の友人に、ピアノの状態を聞いた時の返答の真似事だと、サロメは一瞬で気づいた。安い挑発には乗らない。


 彼女の言う通りで、驚くほど滑らかにピアノのタッチからレスポンスが返ってくることに、カイルは生唾を飲み込んだ。なんかもう、普通にこのピアノ欲しいくらいに。が、そんなことはどうでもよくて。


「今日は伝えたいことがあってね。もうすぐかな」


 それまでの暇つぶしに弾いているに過ぎない。暇つぶし、にしては刺激の強い一台だけども。

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