第266話

 本人は努力しているという感覚もなくて。あっさりと『今日の上手くいった』『上手くいく』自分を捨てることができる。脱皮するように。同じことを反復するのではなく、毎度毎回初めてのように。新しい鮮度を保ち続ける。千回の演奏で千回の感動を得る。


 大きく、権威のあるコンクールであればあるほど、準備に時間はかかる。最も成長する時期、そこに焦点を当てることも。だがどれだけ頑張っても。満足のいく演奏ができても。それを評価するのは第三者。全て失うかもしれない恐怖。全て意味がなかった、と結論づけられてしまう虚無感。それでも。


「このペトロフという会社は——」


 相手に話す間も与えず、そのままグラハムは続ける。捲し立てるようになってしまったので、一旦様子を見ようとも思ったが、熱い視線で見つめられているため話し切ることに。


「弦を叩くアクション部分。ヨーロッパのメーカーはだいたいドイツのレンナー社製を使う。元々はペトロフもそうだったが、さらに高みを目指すべく、のちに自社で開発したアクションを使うようになった。賭けだっただろう。最悪、それまで積み上げてきた功績に泥を塗りかねないほどの」


 その後、デトアという老舗木製玩具メーカーのアクションを使ったり、レンナー社のパーツを自社で組み立てたり、以前と同じようにレンナー社のものをそのまま使う、といったように柔軟に対応。その時の最適解を弾き手に届けている。


 そのため、同じペトロフの同じモデルでも様々な音やタッチが楽しめ、アクションの交換もメーカー自体が推奨している。変化することを恐れない、変化を楽しむ。それがペトロフ。チェコの魂。


「『チェコ人を見たら音楽家だと思え』、そんなことわざが存在する。それだけ根付いた国なんだ、チェコは」


 ここでようやく、ひと息をついたグラハム。カイル以外にここまで饒舌になるのはそうない。なにしにここに来たのか。よくもうわからない。


「……アメリカにプライドを持っている、って記事で読んだことありますけど、詳しい、ですね」


 知識がすでに調律師のような。事実、アクションのことまではブリジットも知らなかった。ペトロフ自体、ここでしか弾いたことがないから。


 それについては言いにくそうにしながらも、グラハムは隠さずに内心を話す。


「プライドはある。アメリカのピアノでしかコンサートはしたくないし、できればアメリカ人の調律師に頼みたいくらいだ。それでも」


 そして再度試弾。ひとり頷く。


 言葉は厳しいが、表情の豊かさをブリジットは悟った。


「……それでも?」


 キリのいいところまで弾き終えると、その味の余韻を楽しむように目を閉じるグラハム。アメリカとか、それよりも突き出た感想。


「このピアノは良いピアノだ。常に弾ける生徒達が羨ましいと思うほどに」


 思わず、笑みがこぼれてしまうくらいには。


 呆気に取られたブリジット。ゆっくりと発言を消化しつつも、


「……私も、そう、思います……けど……」


 と返すのが精一杯。つまり……どういうこと?


 はぁ、と頭を抱えるグラハム。


「……俺は一体、ここになにをしに来たんだ……?」


 目的。そう、目的はなんだったか。勧められるがままに来てしまった。来る義理もないのに。今回も上手いことあいつに操られた。偉そうに学生に説いてみたり。こんなこと。あいつに話したら、きっといつまでもネタにされ続けるのだろう。


 ピアニストは悩み、惑い、迷い、もがく。ショパンは、それらを悪いことだとは思っていなかったという。


『嘆き、苦しい時は、それらの絶望をピアノに注ぎ込むだけ』


 こう残したように、全ての感情はピアノと共にあることを、彼は知っていたのだから。

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