第258話

 もしも明日がコンクールなら。今の自分の持つ力を信じて挑戦できるのに。でも月日が経ってしまうと、岩を水滴が穿つように、ほんの少しずつ邪念が混じってしまう。そのまま弾き続けても大きく道を逸れていくだけ。素人ならともかく、審査員を騙すことなどできるわけがない。


 止まっていたら泣けてきそう。だからこそ、なにか弾いて。弾いて。余計なことなど考えられないくらいに。


 そんな時。


 コンコン、とドアがノックされる。


「……?」


 誰だろうか。サロメ、だったらノックもなしに突然入ってくる。カルメンとかも。ヴィズ? それか先生かな。


 そうこうしていると、ゆっくりとドアが開く。ピン、と張り詰めた空気をそのまま凝縮したような男。


「……先客がいたか」


「——あ」


 不意に、緊張が走ったブリジットはそんな声を漏らす。それは知った顔。昨日、初めて会った顔。


 一瞬、考え込んだ男は身を引くことを決意。ここの学生でもない。練習する生徒のほうが重要だ。


「すまない。続けてくれ。俺は違うところへ——」


「? あの、昨日は……」


「……昨日?」


 ふと、狼狽するブリジットから呼び止められた男は、頭に疑問符。ここには初めて来た。少なくとも昨日は、少しパリの街を観光した程度で、少女のことは知らない。


 シン、と場が静まり返る。なんだか昨日と違う様子の男性に、ブリジットも混乱してきた。


「……はい、え? ……あれ?」


 そこでようやく、新進気鋭のピアニスト、カイル・アーロンソンと同じ顔を持つ人物がいることが脳内で思い出された。言われてみれば雰囲気が違う気がする。あと、少し声も。


「……あぁ、あいつか。違う、俺じゃない」


 そこで男もようやく話の流れを掴んだ。ここに来た理由。勧められたから。あいつに。


 ということは。ポスターなどでカイルの隣によく見かける人物。その姿と、今会話している人物の影がブリジットの目には重なって見えた。


「……グラハム……アーロンソン、さん」


 双子の兄。明るく大らかな弟とは違い、落ち着いて大人びた印象。いや、大人びたって、自分よりそりゃ上だから大人なんだけど。なんだかこんがらがってきた。


 カイルから聞いていた少女はこの子か、とグラハムは凝視してみる。


「そうだ。悪いな、練習中に。昨日もあいつが迷惑をかけたのだろう」


 そして謝罪も入れておく。きっと同じような状況で。勝手にベラベラと喋り。練習を妨害して。なんや勘やと邪魔をしたことだろう。誰に対してもそう。目に浮かぶ。

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