第252話
まだ無名のポーランド人が世に送り出したこの曲は、かのシューマンが「天才が現れた」と大絶賛したほど。ショパンはピアノの独奏曲がほとんどを占める中、珍しいオーケストラを伴うものであり、あまり弾かれることのない独奏版。
ポーランドから飛び出るために、わざと大掛かりな曲を作った、とも言われている。オペラでは女たらしのドン・ジョバンニがツェルリーナを口説く、第一幕で歌われることになる。その状況に違わぬ、甘く蕩けそうなピアノの音色。
(ったく、むかつくヤツね。予定もなにもあったもんじゃないわ。だけどやっぱりこいつ……上手い)
辛口で知られるサロメだが、それでもピアノに関しては嘘はつかない。単純に明確な彼だけの『ラ・チ・ダレム変奏曲』。今までに聴いたどれよりも軽やかで。派手で。二千人と関係を持ったという色男の人生観さえ見えてくる音。
同じようにブリジットも、ただ唖然とするだけ。美しく。セクシーで。移り気な彼が、より誇張されすぎるほどに誇張されて。絶対に自分では弾けない領域にある。
(しっとりとするところは、星空の下にいるような静けさを持っていて。孤独を恐れる彼の一面、というか。魅力を最大限まで引き出している……)
そしてこの曲を涼しい顔で弾いているところに背筋が凍る。一五分程度の曲ではあるが、かなり体力を消耗する。そのはずなのに、そんなカッコ悪いところは見せない。まるで彼自身がドン・ジョバンニであるかのよう。
実際、カイルはドン・ジョバンニは共通している部分があると思っている。容姿や体型などに関わらず、全ての女性を愛するドン・ジョバンニと、全てのピアノを愛する自分。考えていることは、どのように相手を口説くか。
世界に存在する……何千万? 何億? あるのか知らないが、全てのピアノはそれぞれ違った口説き方があるはず。だがとりあえず、今目の前にあるピアノの心に大切に触れるだけ。
「——というわけで。これは真似しないようにね」
全て弾き終えたカイル。あまりに官能的すぎるため、間違いなくコンクールでははじき出される。でも審査員によっては好きかも。なので運に相当左右される。ある年なら一次で落ちて、あるときはファイナル、なんてこともあるかもしれない。五年に一度しかないので、そんなギャンブルはできない。
ブリジットは反応に困った。間違いなく唯一無二だった。のだが、自分の歩く先にはない音。それでも。
「……とても、素敵、でした」
率直に伝えることにした。自分が審査員だったら。『予選を通過させていいか?』の項目には『イエス』をつけるだろう。
好きな曲を好きなように弾けて満足したカイルは、そのピアノの所感を発表する。
「ていうかさ。すっごい弾きやすいんだけど。調律必要? って思うくらいに」
「あたしが調律してんだから当然でしょ。んで、調律のいらないピアノなんてない。というか、あんた達ってアメリカのピアノだけしか弾かないって言ってなかったっけ?」
ペトロフの強みを全面的に押し出すような、透明感と立体感のある調律。以前に調律した時からそんなにも経っていないこともあり、サロメとしては自信のある仕上がりだった。ついでに気になった点についても触れてみる。
そういえばそういうことになっていた、とわざとらしくカイルは手を叩いて思い出したようにリアクション。
「コンサートではね。こういった遊びならなんでも弾くさ」
まぁ、コンサートも全力で遊んでいるわけだけど。より堅苦しさもなく、弾ける状況はいくらあってもいい。
「あー、はいはい。じゃ、さっさとやっちゃうわよ」
作業に取り掛かろうとするサロメ。もうこいつと話す時間がもったいない。とりあえず整調から。
しかしその目は。
ひとり黄昏るブリジットに向けられていた。
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