第246話

 チェコの都市フラデツ・クラーロヴェーを本拠地とするメーカー、ペトロフ。そのフルコンサートグランドピアノ『ミストラル』。フランスに吹き荒れる嵐の名でもあり、このメーカーは風の名前をピアノにつける。荒々しさと、過ぎ去った静けさをどちらも表現できる最上位モデル。


 モンフェルナ学園には、様々なメーカーのピアノが置かれている。スタインウェイ、ヤマハ、カワイといったコンクール御用達のものから、ファツィオリやベーゼンドルファー、ベヒシュタインといったヨーロッパを代表するメーカーも。プロのピアニストであれば、どんな性格のピアノも弾きこなせるように、という理念に基づく。


 その中に『ミストラル』も含まれている。


「なんか簡単そうなショパンの曲ってない? 私でも弾けそうな」


 心がじんわりと温かくなる。そんな目に見えない優しさを耳から感じ取ったリディアは、その暴風を飼い慣らしてみたくなった。なのでとりあえずは初心者向けから。身を乗り出して教えを乞う。


 簡単な曲。どんな曲も難易度を易しくしたり、他の楽器とのアンサンブルのために編曲することはある。ショパンはピアノの詩人と呼ばれるだけあり、たくさん曲はある。その中でもこれ、というものをブリジットは選んだ。


「そう、だね。『ノクターン 第二番』なんかは、有名だし比較的易しめ、かな」


 どこかで必ず聴いたことがあるであろう曲。実はショパンでした。興味を持ってもらうこともまた、嬉しい。細くしなやかな指が鍵盤を走る。


 変ホ長調だが、ヘ短調、ハ短調など転調を繰り返し、テンポが揺れ動く曲ではあるが、技術的には難しくなく比較的テンポにも自由なところがある。ショパンに限らずクラシックを始めるならここから、という彼女のオススメの曲。


(この曲。なるほど、そう動かすのか)


 タイトルも初めて聞いたリディアだが、食い入るように指の流れを見つめる。もちろんピアノを習ったこともない。だから和声も対位法も知らない。ただ、鍵盤を押す順番とぺダルを踏む感覚を『見て』覚えているだけ。記憶して脳内で弾く。


 『ノクターン 第二番』はフレーズなどに細かな変更があるものの、基本的には繰り返すコーダ付きのロンド形式。その美しさから幅広く愛されている、ショパンを代表する曲。それを探究者ブリジットが優しくも儚く紡ぎ出す。


 まるで空間そのものが、月夜に照らされた静かな草原にでもワープしたかのような、そんなゆったりとした時間。即興で演奏に変化を加えることの多かったショパンであれば、きっと様々な装飾をして聴衆を楽しませていたことであろう。

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