第244話

 他人には聞こえない音量でランベールは舌打ち。目的はやはり。


「もう記憶から消してそうですけどね、あいつなら。都合の悪いことはすぐに忘れる」


 なんだか心がゾワゾワとする。あいつのほうが腕は上であることはわかっているのに。言葉でも脳でもわかっていても、心だけは認めたくない。負けず嫌い、ということか。


「それで、どんな感じだったの? 彼の調律は」


 腕がいい、というのはロジェは聞いた話でしかないため、多少は気になるところ。あまり関わりを持つことはないかもしれないが、一応の情報収集。若い目や耳からはどう映ったのか。今後も付き合う可能性がそれなりにある、という予感がしている。


 正確には自分が主導で調律し、向こうには補助をしてもらっただけだが、それでもランベールには学ぶところが多かった。


「実際にあの人の調律したピアノ、ではないのですが、とても勉強になりました。このアトリエの誰とも違う角度からピアノを捉えているような。一度、全てアレクシスさんの調律した音を聴いてみたいです」


 またピアノの深さを知った。もしくは深さの種類の違いのような。調律師によってユニゾンが違うし、ゆえに音も違う。それはわかっていることだが、ピアノとの向き合い方にもそれぞれの差異がある。それを認識できたことは大きな収穫。だが。


「ランベールくん」


「? はい」


 真剣な面持ちのロジェに名前を呼ばれ、ランベールの背筋が伸びる。一瞬、なにかに触れそうになる感覚があったが、そこから引き戻された。いいものだったのか悪いものだったのかわからないが、気が引き締まる。


 店長として働くロジェ。もちろん調律はできることにはできるが、普段はやらないこともあり、調律した台数自体もすでにランベールには抜かれている。腕前も。わかっているからこそ、一歩引いてクセの強いアトリエの人々を安定させることに注力している。


「焦らずゆっくり、だよ。誰かと競うのはピアニストのコンクールだけ。調律師は争わない。作曲家のラヴェルなんかは——」


「音楽院時代は全く賞が取れず、サロンでじわじわとかなりの時間をかけて名前を売っていった、ですね。大丈夫です」


 本当は焦りを感じていたランベールだが、呼吸を深くすることで視野を広く戻せる。こうした器の広さのようなもの。店長から学ぶことも多い。ゲームでいうところのセーブポイントのような。一度、リセットできる。


 間を置き、お互いに深呼吸。何度も。深く吸って、止めて、長く息を吐く。こうすれば眠りやすくなると海外ドラマでやっていた、とロジェは取り入れてみた。


「ま、今は余裕もあるし、販促のためにも一曲弾いてみる? 名前も出たしラヴェルでも」


 気持ちを入れ替える。前向き、はいいことばかりではない。左右も後ろも上も下も。しっかりと見据えることが大事だと思っているから。


 それにはランベールも賛同する。誰も他にいないのだから、少し羽目を外して。たまには弾く側だっていい。


「そうですね。それじゃ『水の戯れ』を」


 ノルウェーのピアニスト、ホーカン・アウストボーは、ラヴェルのピアノ独奏集を録音する際に「ラヴェルが音楽を通じて示す複雑で神秘に包まれた領域には、入り込むほどに謎が生まれる」と言った。その領域に入れるとは思わないけども。


 全面強化ガラス張りの窓。すでに日の暮れた外は、通りの街灯や向かいの店の電灯。足早に歩く人々。雨が降っている。少しずつ。気づかぬうちに侵食するような。そんな冷たい雨が。

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