第238話

 淀んだ空気を打破するために、適当にカイルは手を上げて注文する。スイーツならなんでも食べるだろう。好みは知らない。


「そんなことないよ。キミが探しているピアノは、メイソン&ハムリンではない、と伝えておいてくれとも言われている。よかったね、探すメーカーがひとつ減ったよ」


「いくつあると思ってんのよ。ひとつ減ったところで」


 それこそ全てのメーカーを把握できている者など、この世に存在するのか。倒産したメーカー、吸収されたメーカー、ひっそりと開業してひっそりと閉業したメーカー。それだけでも二千はあると言われているのに。サロメにもそれはわからない。


 スマートに支払いを済ませ、イスから立ち上がるカイル。充分に楽しめた。今はそれで満足。


「それじゃ。またパリでのコンサートの時はキミにお願いするよ。そうそう、グラハムのほうも素晴らしかった。随分と挑戦的な調律だったね。キミ達の若さは武器だよ」


 それぞれ違った良さがあった。どちらも捨てがたい。ショパンコンクールの使用ピアノとして送り込んでも、何人かの好みに合うだろう。自信を持って送り出せる、それくらい素晴らしい調律だった。


 全くコイツはなにを言っているんだろう。最初から最後までサロメには彼の実態を掴むことはできなかった。


「もし会えたら。これを渡しておいて」


 アイツに。もしまた会えたのなら。自分は。きっと会うことなどできないだろうから。先日のチケットとは逆に、今度はこちら側から手渡すもの。


「これは? チューニングハンマー?」


 受け取ってカイルはそれをまじまじと見極める。調律師の魂。それが今。自分の手元に。


 そんな大事なものだが、今のサロメには必要ない。元々、それも譲り受けたもの。年季が入っているし、いつかは壊れてしまう。


「もういらなくなったから。新しいの手に入ったし」


 アレクシスからもらったものがある。さすが値段に見合うだけの使いやすさ。これさえあればもういい、というくらい手に馴染む。


 ということはつまり、サロメ・トトゥ愛用だったもの。まだ温もりを感じるそのハンマーを手にカイルは。


「なるほど。それまではお守りとして僕が連れ回すよ。会えたら渡しておこう」


「……」


 ……やっぱ返してもらおうか。そんな寒気をサロメは感じた。

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