第237話

「いい調律だった。自分史上最高の演奏だったかもね」


 雨のパリ七区、ショコラトリー〈WXY〉。ソファーのテーブル席。フランス人はあまり傘をささない。湿度が低く、すぐ乾くから。大雨でもない限り、手荷物を増やさないのがパリを楽しく生きるコツ。そんな夕の風景を、窓を通してカイルはとろけそうな目つきで見つめる。


 その反対の席にはサロメ・トトゥ。腕と足を組んで目を瞑る。明らかに不愉快、という態度。


「あっそ。どうでもいいわ。それよりわかってるんでしょ?」


 会話は必要最低限に。そして甘いものでも摂取しながらでなきゃ、耐えられそうにない。混み合う店内。人々の話し声なども、この嫌気を緩和してくれる。


 そんな神経を逆撫でするようにカイルは急所を突く。


「なんだい? 専属の調律師になるかい?」


 違うことはわかっている。ただ、もう少しこの人物を観察してみたい。そのためには、多少の無茶も言ってみる。


 グッと握った拳。歯を食いしばって耐えたサロメは、深呼吸をして落ち着ける。親友の働く店で暴れるわけにはいかない。


「……アイツのことよ。まさかアメリカにいたなんてね。どーりでなんの情報もないわけだわ」


 そして本題。ここの空間だけ、ピリッとした空気。


 たっぷりと間を置くカイル。その時間だけは彼女の視線は僕だけのもの。


「……とは言っても、僕も一度しか会ったことないんだけどね。残念ながら今、アメリカにいるかどうかすらもわからない。あ、あのピアノは彼からのプレゼントだから。所有しておいていいみたいだよ」


 あのピアノ。コンサート用にセカンドとして仕上げた、メイソン&ハムリンのCC。アメリカから持ち込んだだけあって、少しの狂いはあった。だが、サロメでも驚くほど丁寧にすでに仕上げられており、そこに込められたメッセージにも気づく。


「メイソンのフルコンをポン、とあげるなんて気前がいいわね。だけどいらないわ。あたしが弾くわけじゃないから。持って帰ってもらって——」


「あー、それなんだけど、キミのとこの店長さんに連絡したら、ありがたく受け取ってくれるみたい。僕がコンサートで弾いた、ってことで」


 よかったね、グラハムのとセットでお客さん増えるよ。それくらいのサービス、カイルには造作もないこと。調律師とピアニストは持ちつ持たれつなのだから。というか僕のピアノじゃないし。


 中間でバチバチと、戦闘色の強い警戒の視線と、甘い蜂蜜色の粘り気のある視線が交差する。十秒ほど睨みつけてみる、が、先に視線を外したのはサロメ。


「結局なんの手掛かりも無しか。調律して損したわ」


 大きくため息を吐き、ホットショコラを息を吸うままに飲み干す。カチャン、とカップをソーサーに多く音が乾いて届く。

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