第236話

 パリ八区のラ・ボエシ通りに存在するそのホール。二〇世紀の初頭に建造され、名のある音楽家が演奏し、パリでも有数のホールへと成長したが、一度取り壊されそうになった過去もある。


 それを富豪が購入し、歴史的な建造物として登録されたことと、助成金などがおりたことで修繕開始。今ではその歴史ある風情と香りに包まれた、音楽家の目指す道のひとつとなっている。


 まもなくコンサートが開始される。二人の新進気鋭のピアニストによる試弾も完了し、反応も良好。初めて大きなコンサートを担当した、とは言っても師匠つきだが、ランベールとしては細かな調整も含めてできることはやれた。だが。


「……早めに調律を終わらせてくれ、とは言われましたけど、あれは聞いてませんでしたね」


 二階の正面最後列に座り、その時を待ちながら会話する。すでに席は全て埋め尽くされ、聴衆の緊張感も伝わってくるよう。それなのに彼の顔は、外の天気のように晴れない。


 軽く笑いを堪えながらもその隣に座るアレクシスは同意する。


「だね。全く自由な双子だ」


「クラシックのコンサートでプログラムが変わることはよくあることですが……こんなこともあるんですか?」


 こんなこと。楽しみのはずなのに。不安と不満がランベールの脳から離れない。前屈みになり、顎に手をやって舞台の上を凝視。


 ここにいる、天才的な才能を持つ双子を見に、聴きにきた者達。それとは違う緊張にアレクシスも支配される。




「いや、私も初めてだね。まさかピアノが『増える』だなんて」




 増える。それ以外の言葉では言い表せない。実際に一台のピアノでソロと連弾のプログラムだったはずだが、二台のピアノによる楽曲も増えている。自分達が調律したピアノ以外にもう一台。


 もちろんランベールは今日、このホールに来てまず驚いた。全く同じメイソン&ハムリンのCCが二台になっていることに。レアなピアノのはずだよな? 戸惑いと——呆れ。


「アレクシスさんも。あれを調律したのは誰なのか——」


「聞いてはいない。だが、キミならわかるんじゃないかな。私には予想がついている」


 こんなルールを当たり前のように破りそうな人間をひとり。まだ一度会っただけだが、なんとなくアレクシスには読めている。


 やはりか。浮かび上がってくるランベールの感情は諦め。


「……でしょうね」


 そうとしか言えない。勝手に気分次第で場を荒らしまくるヤツ。それでいて、しっかりと文句のつけようのない調律をしてしまうヤツ。


 早い段階で調律を済ますようにカイルから告げられた二人。その後は非公開でもう一台はセカンドとして調律され、屋根はホールに響かせるために外されている。プリマは自分達のメイソン。


 さて。なにひとつ自分の思い通りにいかなかったことで、アレクシスの喜びは臨界点に達する。やはり色々な場所で、色々な調律師とピアノに出会うのはいいこと。終わったらアジアのほうにも調律の旅に出てみようか。


「とりあえず楽しもう。間違いなく、ランちゃんの調律は素晴らしいものだ。たまには若い人の音を聞くのもいいね」


 型を持っていてそこに流し込んで鋳造するような。決まりきった、そんな自分の音を一度壊したい。


 はぁ、と煮え切らない返事を返しながらランベールは再度ピアノを睨みつける。


(……どういう風の吹き回しだ? やりたくないと言って断ったくせに、結局全てをぶち壊してあいつの色に染めやがって)


 まぁ、なにを言っても無駄だということはわかっている。ブリュートナーの時のように、サイズが違うわけでもないから、むしろやりやすいほうではあるのだろうけど。簡単というわけではもちろんない。


 そして。予定もプログラムもなにもかもが未知数のコンサート。それが始まる。

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