第235話

 それはカイルにとって予想通りでもあり、予想外でもある。なんだかんだで上手いこと口車に乗せられると思っていたが、早々に諦めるしかないかもしれない。そんな拒絶を肌がキャッチした。


「……なるほど。頑固だね、あの人の言っていた通りだ。オーケーオーケー、いきなりだったし。そこは申し訳なかったね。心の準備ができていないだろうから」


「そんなものいらないわ。何回来ようと無駄。あたしはね、案外気に入ってんのよ。今の暮らし」


 最初はアトリエのことも、目的のための踏み台にしか考えていなかったサロメ。だけども。ランベールやルノー、ロジェやその他出会った人達。案外心地いいもので。


 ピアノのために生きて、ピアノのために死ぬ。それこそが理想だった。しかし、回り道している今が。思いの外楽しくて。だからこそ、その道から無理やり外そうとするヤツは無視するに限る。


 ここでカイルは完全に諦めることにする。これでは信頼関係もなにもない。ピアニストと調律師はどちらも表であり裏でもある。今のままではお互いに損。


「そのようだね。そうとだけ伝えておくよ。僕もサロメ・トトゥという人間を間近で観察できてよかった。あ、そうだ」


 帰ろうと返した踵を再度返す。まるでチャップリンのパントマイムのように演技派。


 一瞬だけ、苦虫を潰したような顔になるサロメ。


「なに?」


 まだなにかあるとでも?


 コートの内側のポケットからペンを取り出す。いつも持ち歩いている。


「サイン。書いていかないと」


「……」


 ものすごくどうでもいい。眉を顰めてサロメは聞き流すことにした。


「あとこれ」


 そしてカイルが同時に取り出したもの。二枚の紙状のもの。それに軽くキスをする。


 貰えるものはなんでも貰う主義のサロメだが、一度伸ばした手を引っ込めつつも、強引に手渡されたので一応受け取る。そして確認。


「……チケット?」


「明日の僕達のコンサート。彼女のぶんも。よかったら来てね」


 彼女、とは現在ピアノを弾いているキアラのこと。一緒においで、とカイルは誘っているわけで。


 たぶん、買うと結構するのだろう。いや、絶対に買うつもりもなかったけど。悩んだ末にサロメはそれを受け取った。


「……最後にひとつ。あんた、アイツとどういう関係?」


 もう一度だけ聞いてみる。はぐらかされるかもしれない。それでも。なにか。もしあるのなら。


 やっぱり気になってるんじゃないか。なんだか勝ち誇ったように上機嫌になるカイルだが、サービスで本当のことを話そう。


「普通に普通だよ。一度調律を頼んだことがあってね。その時に色々と話しただけさ。そしてパリでのコンサートについて話したら、キミのことを教えてもらった。それだけ」


 以上がキミの探すピアノ、もとい、探している人物に関する情報。それ以外に言いようがない。期待させてたらごめんだけど。


 本当なのだろう。なんとなく、嘘をついているようにはサロメには思えない。


「それだけでここまでやる?」


 しかしだからこそ腑に落ちないわけで。自分に有利になるように動いているような。そんなことをしてどんなメリットが? わからない。こいつも。アイツも。


 これ以上は色々と無意味だろう。そろそろカイルも立ち去ることにする。


「言っただろ? 自分達のためにやれることをやっているだけ。キミのためにどうこうってのはないよ」


「……」


「僕はそれだけの準備をしてきてある。あの人からのプレゼントだ。ま、残念な結果だったけどね」


 無言のサロメを尻目に、最後にそう残してカイルは今度こそ立ち去る。キミの調律をコンサートで味わいたかったけど。またの楽しみに残しておこう。とりあえずサインサイン。ひと言、キアラにも声をかける。


 数分後、演奏を終えたキアラが、カイルの消えていったドアを見ながら歩み寄ってくる。


「……行っちゃった。けど、サロメ。大丈夫?」


 大丈夫。いったいなにについて大丈夫なのか、聞いた自分もわからないけど。そうとしか声をかけられなくて。


 聞こえてはいる、聞こえてはいるのだがサロメとしてもどう、返答したらいいのかわからなくて。


「……」


 そうしたゴチャゴチャとした雑念に支配されたまま、奥歯を噛み締めた。

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