第234話
彼女はとあるピアノを追い求めてパリまで来た。この話を知っているのは、社長であるルノーと、あとはブリュートナーのとこの息子。あとは何人かいたかもしれないけど、それでも片手で数えられる程度。ランベールなども知らないはず。それをなぜ。
小さく「おっ」と喜びを表現したカイルは、見下ろすようにして余裕を見せつける。
「さぁ? これで僕に興味が湧いてきた?」
手を広げ、胸に飛び込んできてもいいように。店内はイタリア感もあるし。情熱的にやってみる。
張り詰めた空気。まわりの他の客も、ちょっとだけ異質な二人をチラチラと見たり見なかったり。揉め事になったらそそくさと退避する姿勢をとりつつ。
呼吸を忘れて睨みつけるサロメ。今のところ、飛び込むつもりはないし、怒りが一秒ごとに増していく。
「……別に。キアラ、ピアノの演奏頼める? 派手なジャズ」
空気。空気が悪い。それに、せっかくできた友人を巻き込みたくない話。申し訳ないが、注文を入れてみる。
まだ知り合って間もない間柄ではあるが、なんだかキアラとしてもこの場を離れることが最善な気がして。その案を了承。
「え? ……うん、いいけど」
「よろしく」
サロメは視線をチラッとだけ移したが、すぐに真剣な眼差しで目の前の男へ戻す。油断ならない、というよりも信用できない。してはいけない。そんな胡散臭さ。
とはいえ、ダラダラと先延ばしにするのもカイルにとっては難しい話。コンサートは待ってくれないのだから。
「さて。返事を聞かせてもらえる? もう明日だからね。早めに——」
「断る」
相手が言い終わる前にサロメは断言。そしてドーナツをひと噛み。断ったあとのスイーツはより甘い。
より深みを増すカイルの笑み。だと思った、そんな言葉もセットでついてきそうで。でもとりあえず。
「理由を聞いていい?」
明るく明るく。朗らかに。ちょっとだけ落ち込んでるけど。悟られないように振る舞う。
ゆっくりと咀嚼して。そうすると、いつもの精神状態が戻ってくるサロメ。糖分が余計な思考をクリアにしてくれる。
「あたしの嫌いなもの。店に向かってる時間、席が取れなくて待たされてる時間、注文してから出てくるまでの時間」
「ふむふむ」
だいたいスイーツに関係ありそうだな、とひとりカイルは判断した。
ごくん、と食べたものを飲み込む。目を瞑ると食道を通り、胃に落ちていく過程がより際立って感じられる。サロメにとって至福の時。なのだが。
「それと、あんたと『アイツ』みたいに、なんでも人を思うように動かせると思ってるヤツら。残念でした、あたしは動かないわ」
いつもより満足感が得られない。その原因はこの男。ただただ美味しいものを食べたいだけなのに。変な茶々を入れられて大変ご立腹。全然精神状態は戻っていない。
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