第232話
結局のところ、全ての人間にとっての良い音、など存在しない。だからこそピアノは自分を表現できる。彼にとってはその『甘美でとろけそうな』という曖昧な音こそが至極となる。
なにを言ってるんだこいつ、と言いかけたサロメだったが、積み上げられた皿が目に入りグッと堪える。
「その件ならウチのスタッフがもうすでに調律してる頃でしょうよ。あたしはノータッチ。知ったことじゃないわ。成功しようが失敗しようが」
むしろそっちのほうが面白い。是非ともランちゃんには失敗してもらって、二度とパリには呼ばれないようなコンサートにしてやればいい。あのアレクシスとかいう人はなんとか誤魔化して。
うんうん、と腕を組んでカイルは一応は納得。それもいいんだけども。面白いものを見つけちゃったら、今遊んでいるものを放り投げてでも飛びかかっちゃう性格。
「それなんだけどねぇ、なんとかならない? 明日キミがちゃちゃっと——」
「やるかっつーの。なんでそんな面倒なこと。てか、コンサートを成功させたいんじゃないの? だったら今からでもホールに向かって音の確認でもしといたほうがいいんじゃない?」
型を破りまくりなサロメにしては至極まともな忠告。普段とは環境も違う、ピアノも違う、観客の質も違う。となると、一音でも多く弾いて、自身を慣らせることは大事。こんなとこでナンパしてる場合ではないんじゃなくて?
ピアニストというものは神経質な者も多い。特にクラシックの世界では、二〇世紀のドタキャン王、リヒテルのように、気分が乗らないなどの理由で頻繁にキャンセルする人物もいた。それ以外にも、他のスポーツなどと比べてもプロとしての寿命が長い職業。高齢による体調不良など、海外で演奏する負担は思いのほか大きい。
まだまだ自分は若い、と自負しているカイル。胸を張って威厳を示す。
「成功はするよ。僕がいるんだからね。問題はそこじゃない。いかにグラハムが今の殻を破れるかなんだ」
自分自身の心配は一切していない。相方であり、兄弟でもある片割れを成長させるために。今後、弟子をとった時の練習として今からそういうことにもチャレンジしてみる。
そしてここで点と点が結びついたキアラ。単語がスライムのようにくっついて膨らみ、ひとつの可能性が生まれた。
「……え、ちょっと待って。カイルとグラハム……コンサート、ってことは、あのアーロンソン兄弟!? 本物ッ!? 似てるとは思ってたけど……」
「そうだよ。今気づいた? サイン書く? あのピアノとか」
僕もまだまだ知名度とか顔とか売っていかないとだ。すでにまぁまぁ知られていると思っていたカイルは、少しだけしょんぼりしつつファンサービスも忘れない。
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