第231話
もう一杯ぶんのエスプレッソを注文。クレマが分厚く、美味しいエスプレッソに砂糖を入れると、一瞬溶けずに留まってから沈む。これを見るのがカイルにとっては密かな楽しみ。
「知っているかい? ミケランジェリはプロとして第一線で活躍しながらも、家にはボロボロのアップライトしかなかった。しかもペダルにフェルトを噛ませてあって、ほとんど音も出ないし鍵盤もガタガタ」
勝手にカウンターに陣取り、横の少女に声をかける。そして飲む。精神的に高揚している時はコーヒーも美味しい。これ持論。
壁を向き、そんな視線を全て跳ね除けつつ、一応会話は返すサロメ。大量にスイーツがついてきたから。
「調律師でその話を知らないヤツはモグリよ。有名な話」
二〇世紀を代表するピアニストがいれば、当然同じように代表する調律師もいるわけで。それが村上輝久、その人。名前を覚えない彼女でもそれは特別。
全くもってカイルにはミケランジェリの考え方が理解できない。お金がない、なんてわけもない。
「小さな音を聴きながら、コンサートをイメージして練習する。なにそれ、って感じ。コンサート前になるまでほとんどそうやってイメトレでやってたんだってね」
だが、あまりにも自分とかけ離れすぎて面白い。自分だって家ではグランドを弾く。しっかりと調律を施した。それなのに追いつけないほどに彼とは演奏技術に開きがあると認めている。
終始つまらなそうにスフォリアテッラを齧るサロメ。味は美味しいのだが、隣で変なヤツに喋りかけられると味が半減すると初めて知った。
「二〇世紀の巨匠なんて変人ばかり。ポリーニとか。村上輝久が調律を担当した時は、音色を表現するためにケーキを食べさせられたって話だし」
羨ましい話。そうだ、自分もケーキで要求されたほうがわかりやすい。どんな甘い音色にしたいのかを、糖分で教えてくれたら寸分違わず調律してあげる。
興奮を隠さずにカイルはさらに前のめりに話し込んでくる。
「それも面白いね。てか、それだ。いいこと思いついた」
「あ? あんたのピアノもそうしてほしいとでも?」
言ってみるものだ、と内心サロメはほくそ笑む。どのスイーツにしようか。気が早いが、考えるくらいはいいだろう、別に。
「その通り。明日弾くピアノを、甘く仕上げてほしい。甘美でとろけそうな音色。今までにない音を探し求めてるんだよ、僕は」
ピアニストにとって、自分なりの良い音とは当然ながら大きな隔たりがある。ショパンを硬派に力強く弾くことを良しとする者もいれば、本来であれば不要なはずの弦の唸りを良しとする者もいる。
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