第230話

 そしていなくなったわけで。静まり返った場。ランベールの目の前にはメイソン&ハムリンだけが残されている。よく弾かれて成長した、フルコンサートグランド。


「……で、本当に俺がやるんですか? 設計者を意図した調律を見てみたいのですが」


 せっかくだからやっぱり見てみたい。一体どうするのか。サロメにもレダにも社長にも、あとでそんな調律を望まれたらどうするのか聞いてみよう。


「なんかそんな流れになっちゃったからね。しょうがない。だがこれはチャンスだ。どんな風にするか、決めているのかい?」


 それはまた今度。アトリエ所属にはなりたくないアレクシスだが、この少年のことは結構気に入った。含んだ笑いで誤魔化す。


 その言葉。一応ランベールとしては情報をひっそりとまとめておいた。方向性だけは見定めている。


「リヒテル、という名前が気になりました。憧れているのだとしたら、可能性はあります」


 自分の脳内のピアノが響く。この音。二〇世紀最高峰のピアニストの魂を揺さぶる力強さと繊細さ。


「ほう。どんな?」


 そうきたか、とアレクシスも楽しみ。自分なりの彼のピアニズムとどう違うのか。


 高音域の鍵盤をひとつ、音を確かめるようにランベールは叩く。店長のユニゾン。たしかにこのホールではまだ弱さを感じる。


「彼にとっていいピアノは『心の感度』が重要だと言っていました。感情をダイレクトに、より深く表現できる。音域ごとにかなり音質を変えることは大前提として、その中でもさらに細分化するべきかと」


 低音域・中音域・高音域。それぞれをさらに表現力豊かに。それはピアニストに要求するレベルをさらに引き上げること。そして、細かくすればいいというわけでもない。音質よりもタッチの感度で操るピアニストもいるので、そこは相談し合いながら。


 面白そうな調整。アレクシスは前屈みに食いつく。


「なるほど。アリだね。それで?」


 なんだかこのレベルの人物に、自分の理想論を語るのは少し恥ずかしいけれど。構わずランベールは先に進める。


「それと、リヒテルは村上氏に『弾きやすすぎる』という注文を出したことがあります。俺達が良かれと思ってやったことが、ピアニストにとって良いとは限らない。明日までにまずは俺にとって良いと思えるピアノを生み出します」


 リヒテルのピアノをイメージしながら、このホールでの響きを加味して。となると、非常に時間がいる。ひとりでは不可能かもしれない。というかアシスタントのつもりで来たのに。


 パン、と手を叩いてアレクシスは切り替える。その音は響きの悪いホール内で、乾いた残響を残して吸い込まれる。


「やることは決まったね。自由にやるといい。私が見ている。最悪の場合、私がなんとかする」


 だがそこまで決まっているのであれば、自分のやることはほとんどない気もする。あくまで保険の立場。


 そのひと押しでランベールの方に載りまくっていた荷がほんの少しだけ降りた。キャリーケースから道具を取り出す。


「ありがとうございます。では、教えてください。設計者の意図を汲んだ調律というものを。俺なりに噛み砕いて、理想とするピアノに仕上げてみます」


 せっかく保険が効いてるんだから。ミスった時の責任は大人になすりつけて、自分は大いに遊んでやろう。

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