第229話

 だがそんな彼は、調律師に全てを委ね、ほとんど試弾すらしなかったという。マイナスな気持ちを持たずに望むことができる。いい調律師に出会うことは、ピアニストにとっても成長を大きく促す。そんな彼を目指している。


「それ以外にも、ミケランジェリは音色が気に入らなければ、アメリカツアーで本場の調律を施されたスタインウェイであろうと弾くことをやめた。帯同していた日本の調律師、村上輝久が代わりに調律することで、本来の音色を取り戻した、と」


 追加でアレクシスが細かい情報を挟む。本来のピアニストの音色を知っているということは、大きなアドバンテージとなる。それこそが「村上の手にかかれば、ピアノはストラディバリウスになる」という有名な文言につながるほどに。


 こんなにも調律師と話し込むのもグラハムには珍しい。だが、なんとなく信頼できるような気もする。


「ピアニストはそういう意味では大きく二分できる。出向いた先のピアノでしか出せない音を追求する者と、自分の音を極限まで追求する者。どちらも間違いじゃない。答えもない」


 自分のピアノ以外では演奏しない、と運び込めるコンサートのみ選んで披露するピアニストにも憧れる。妥協をしないその覚悟には尊敬しかない。そして続ける。


「俺達はコンクールに出るわけではない。誰かと争うわけでもない。自分達の音、自分達にしか出せない音を追求する。だから今は様々な調律師のピアノに触れている。光栄に思え、お前の調律が気に入ったら飽きるまでは帯同させてやる」


 ツアーでは、自分達と共に成長できる調律師を探す、という裏の目的もある。今のところは見つかっていないが、期待はしている。あの弟が気にいるくらいだから、とサロメ・トトゥには少し楽しみもあったのだが。


 しかしその誘いをランベールはキッパリと断る。


「結構です。俺はまだ学生ですので。世界を飛び回っている時間はない。では、早速やりましょう」


 時間が惜しい。自分の腕は自分が一番わかっている。だからこそ、すぐに取り掛かって煮詰めていきたい。


 そういえば、双子の連弾がプログラムに入っているはず。となると、ここにいるべき人が足りないことをアレクシスは指摘。


「ところで弟のカイルさんはどうしたのかな? いないようだけど」


 一応、兄であるグラハムとしても声はかけた。が、理由がある。


「……あいつは図太い。どんな調律でもそつなくこなす。本来であれば、俺なんていなくてもあいつはひとりでやっていけるだけの実力があるからな」


 不思議なほどに双子なのになにもかもが違う。取り組みも、考え方も、音も。顔が同じだけ。お互いに認め合ってはいるが、単純な技術・表現力では弟が勝っていることはわかっていた。舞台袖へ消えていく足取りがどこか、寂しさにただれている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る