第224話

 ピアノと男を見つめながらキアラがカウンターに寄りかかる。


「……なんかすごいね……」


 あんな風に弾けたら楽しいのかな。楽しいで終わらせるくらいがいい、と言われたが、あそこまでだとどんな気持ちで弾いているのだろう。目が離せない。


「別に」


 そうぶっきらぼうに返すのでサロメは精一杯。認めたくはないが、明らかに素人の音ではない。まだ調律をしただけのピアノでこれ。整調、整音でさらにもう一段階引き上げたら。考えたくはない。


 そうして時間を忘れるほどに美しい音が支配する。仕方なく店内を出ていく人々も、名残惜しそうに出る瞬間までピアノに集中。二〇分ほど、誰ひとり飽きることなく魅了された。


 余韻を残しつつ弾き終わると、どこからともなく店内では拍手が起こる。良い演奏には喝采を。そこがホールでなくても、居合わせたならマナーとなる。


 そのまま手を上げて応える男。立ち上がり、一直線に歩きだす。そして止まる。


「キミが調律したんだろ? サロメ・トトゥさん。ファンなんだ、サインもらっていい?」


 唐突すぎて口を開けてキョロキョロと見守るしかないキアラ。


 そして冷ややかに目線だけぶつけるサロメ。やっぱりね、という感想。


「あんた誰?」


 コーヒーを啜りながら短く。知り合いでは当然ない。名前が知られているのは、良いこともあれば悪いこともある。少なくとも今は知られていないほうが良かった。


 カウンターに手をつき、男は自分に関心を求める。


「ファンだと言っただろう? キミが出てる動画を見てね、面白そうだと思ってたんだ。で、キミが所属してるアトリエに行ったらここだと教えてくれてね」


 普通にプライバシーが漏洩している。これは穏やかには済まなそうな事案。拳を握るサロメの握力はいつもより増している。


「あたしは変な男を引き寄せやすい体質なのかしらね」


「ひどいね。せっかくはるばる来たんだから、会ってみたいってのは自然な感情だと思うけどね、僕は」


 故郷の友人にお土産を買うよりも、男には優先順位は上。動いているサロメという女性を見られるのはパリだけだから。


「つーか、勝手に個人情報バラすなっての」


 来る前に一度アトリエに寄っているから、犯人は店長とサロメは推測。ショコラトリー〈WXY〉のショコラ一週間ぶんで手を打とう。


 なんだか自分のわがままで危険に晒されている人物を男は予見。とりあえず取り繕っておく。


「あー、あの人。偶然にも……ってわけじゃないと思うけど、僕のことを知っていてね。アトリエに今頃飾ってあると思うよ、僕のサイン入りTシャツ」


 それでチャラにしてあげて、と可愛らしくおねだり。それなりに価値はあるはず。自分で言うのもなんだけど。


 しかしそれら全て、サロメの心には響かない。ただ食事と会話の邪魔をされただけ。


「で? あんた何者? 悪いけど、あたしピアニストとか知らないから。ま、言われてもわかんないけど」


 あれだけ弾けるのであれば、なにかしらのプロであることはわかっている。だが、だからといって興味はない。興味があるのはピアノだけ。


 固まるキアラのことは気にせず、男はより顔をサロメに近づける。


「一応、キミのところに僕達のコンサートの調律をお願いしてるんだけどね。聞いてない?」


「知らないわよ」


 その強情さが逆に男のハートに火をつける。思い通りにいかないほうが面白い。やはり思っていた通りだ。


「カイル・アーロンソン。アーロンソン兄弟、はそれなりに名前が通ってるはずなんだけど」


 世界的にそれなりに話題の連弾兄弟。その弟。明日からのパリ公演のためにここには来た。


 天井から降り注ぐライト。それを浴びながらサロメは熟考する。カイル・アーロンソン。アーロンソン兄弟。アトリエに依頼。なるほど。


「知らん」


 考えるのも面倒になったので適当に返した。

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