第223話

「あ、誰か弾くみたい。ちょっとカッコいいかも。気に入ってくれると嬉しい」


 まずキアラは顔から品定め。働いている時でも見たことのない人物。観光客も多いパリ、それもそうかとひとり納得。


 反対にサロメは下手な演奏で味を壊されたくないとすでにご立腹。


「ったく、このあたしの前で弾くなんて運の悪いヤツ。ダメ出しでもしてやろうかしら」


「こらこら」


 自分の店でいちゃもんをつけようとする相手を宥めるキアラ。彼女にとってはピアノは腕前より心。魂。人々に受け入れられている、という空気がより場を和ませる。以前より弾いてくれる人が増えた気がする。


 しなやかにイスに腰を下ろした男性。厚手の黒いコートを羽織ってはいるが、脱ぐこともせずにそのまま。チラッと目線を壁のカウンターで立って食事をする女性二人に向ける。


「……?」


 その気取った態度がサロメには若干鼻についたようで、眉が片側吊り上がる。いいところを見せよう、とでもいうのだろうか。残念ながらすでにマイナスからスタートなわけで。


「さて」


 そう、小さく呼吸を整えた男は再度ピアノに向き合う。不適な笑みを浮かべたまま。演奏開始。


 流麗な音が店内を支配する。煌びやかで、まるで宮殿の和やかなひと時を過ごしているような、かと思えば悲壮的なトリル。一瞬で人々は惹きつけられる。会話を楽しんでいた者達も、ふと誰からでもなく音に耳を傾けだす。


 広く鍵盤を使い、移ろいゆく感情が強弱、緩急と共に聴衆に染み渡る。そこにはピアノと男だけの世界があって。コーヒーや食事を楽しみながら、周囲の人達が溶け合わさっていく。


 その世界観に酔いしれながらも、ふとキアラがその手元が気になってくる。一体どんな風に弾いているのか。いや、参考になるわけないんだけど。でも記念に。ここまで美しい音をこのピアノで聴いたことはない。


(……あれ?)


 そっと邪魔にならないように近づき、手元を覗き見る。すると、想像とは全く違う姿。


 逆にサロメは一切視線をそちらに移さない。この曲を知っているから。だからこそ険しい顔つきで飲食を進める。


(……上手い、わね。しかもアルカン『三つの大練習曲』、その第二番〈右手のための序奏、変奏とフィナーレ〉。なんでこの曲を)


(左手を……使ってない?)


 使っているのは右手だけ。それだけで見事に奏でてしまっている。困惑と驚きと。目を丸くして後ずさるようにキアラは元の位置に戻ってくる。


 噛む力が無意識に増しているサロメ。気づいたら大量の皿が積み上がっている。こういう時は嫌な予感がする。


「……」


 やっぱりこの店はなにか自分と相性が悪いのかもしれない。杞憂であってほしいが、良くない勘は当たるほうだと自負しているから歯痒い。

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