第216話
そこでランベールも頭のスイッチを切り替える。深呼吸。すると、一歩引いて、さらには上から見下ろすような視点でピアノが見える気がする。いい集中の時の証拠。
「今回は連弾とソロですからね。ベートーヴェンにショパンにロッシーニ、モシュコフスキーにムソルグスキー。ドイツやフランス、イタリアにスペインにロシアなど、もはや型がないですね。どう仕上げたらいいのか」
演奏するプログラムを見せてもらったが、自由奔放そのもの。いや、それが狙いなのかもしれない。なにものにも囚われない、国境にも時代にも。頭を空っぽにして、ただ楽しむための。
コンサートやリサイタルなどでは、作曲家や時代などを合わせて、自分なりの解釈を表現するピアニストは多い。だが、それは聴き手に要求するレベルも高くなってしまうことがある。だからこそ、敷居を低くして初心者の最初の入り口のようなプログラムにする場合もある。今回はそれに近い。
だがそれは同時に、調律師にも相応のレベルを求められることになる。ピアニストの音楽的思考と曲に相性があるように、一貫した道筋が見えてこない。
「例えばイタリアは『声』と『メロディ』、ドイツでは『器楽』と『ハーモニー』にこだわっていたことからもわかるように、全く方向性が違う。それに双子の兄弟だが、タッチの柔らかさも違う。さて困ったね」
国によっても国民性で求められるものが違うように、調律にもどう響かせるかなどの問題がつきまとう。ショパンであれば優しく、バッハであれば鋭く強く。どうしてもそれらが乱立すると、どうパラメーターを振り分けるかに悩むように頭を抱える。
「どうするつもりですか? 社長からは、アレクシスさんに自由に任せるように言われていますが」
本当にいいのか? といまだに半信半疑のランベールではあるが、彼の調律が見たいのも本心。そこでせめぎ合うため、決着は他人に任せる次第。
腕を組んで目を瞑るアレクシス。数秒間、たっぷりと時間を使ってから口を開く。
「……ちなみにランちゃんはこのホール。どう思う? 率直な感想でいい」
上を目指すピアニストであれば、誰しもがここで弾くことを妄想する。そのホールに立ってみて。どんな感じ?
呼ばれたランベールの眉がピクッと揺れる。この人もサロメと同じ呼び方だなと認識。心臓の高鳴りを抑えながら深呼吸を何度も繰り返し、想像してみる。ここで弾けるなど、夢のまた夢。さらに夢であっただろう。歴史に名を残すような名ピアニスト達が弾いたこのホール。だが。
「……はっきりと言います。音響があまりいいとは言えません。まさか、とは思いましたが」
調律師とはいえ、舞台に上がった。そこから見える景色。スポットライトが当たり、細かな埃さえも視野に入る静謐さ。神経が研ぎ澄まされる。だからこそ。感じ取れる違和感。
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