第210話
「やるわけないっつーの」
一度アトリエに戻ったサロメの機嫌は悪い。いつも通り、店から仕切られた奥のソファーで寝そべりながら不満が爆発する。
その対面に座るのは珍しくいるレダ・ゲンスブール。時間がある時は店に来ることもある。働くか働かないかは気分次第。
「まぁまぁ。話だけ聞いてみたら? 中々に面白そうな話だね」
今はちょっとだけ意欲はある。興味をそそられる。組んでいた足を解き、前のめりに乗り出す。
「レダさんがやればー? 問題ないでしょ」
彼の実力はわかっているサロメ。飄々としているが、スタインウェイのような柔らかく温かい音からベーゼンドルファーのキレのある鋭い音まで、まるで魔法のように自在に操る。加えてコンサートホールの複雑な形状などを考慮し、どの位置がどう聞こえるかも把握している。
その発言は高く評価されている証拠。嬉々としてレダは受け取る。
「僕はほら、都合がつくかわからないし。コンクールの新設か。この時代によくやる」
そして断る。あくまで調律師は副業。たまたま実力が身についてしまっただけ。
そしてコンクール、というと聞こえはいいが、かなり財政が苦しいものも多い。かの有名なロン=ティボー国際コンクールですら、スポンサーを見つけるのに四苦八苦した過去があるほど。そういった経緯で消滅するコンクールも後をたたない。
その情勢はピアノに関わる者であれば有名な話。当然サロメも把握している。そしてレダと同意見ではある。
「中東のピアニストも増えてきてるし? オイルマネーでなんとかしようとしてるんじゃない? あるとこにはあるのよねー」
今回の紹介をもらったコンクールは、中東の地域に新設されるピアノのみのコンクール。この地域はクラシックとはかけ離れているイメージだが、ルービンシュタイン国際コンクールが開催されたり、ファジル・サイのようなジャズを融合させた鬼才もいる。
その他、中東音楽の特徴として『微分音』というものもある。表現の幅を広げるためにわざと微妙に音程をズラすこの技法はマカームとも呼ばれ、特に弦楽器では西洋のクラシックとはまた違う顔を持っている。
「『クレッシェンド』という、中東を舞台にしたオーケストラの映画もあったな。で、電話してきた男。一体どういう人物なんだ? メーカーの専属調律師か?」
そこに社長のルノーも顔を出す。また厄介かつ大きめな仕事を抱え込むことになりそう。そんな期待もしてしまう。サロメ・トトゥは彼にとって毒にも薬にもなる存在。
そしてコンクールに帯同するとなると、メインチューナーが来ることが多い。そのメーカーを代表するだけあって、チームを組んでピアニストのメンタルケアなども行ったりもする。
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