第209話
そこに割り込んでくるのは先ほどの男。忘れ去られたように存在感を消していたが、まだ帰っていない。
「当然。と言いたいところだけど、音楽院ですらあまり気にしていないのが現状。なんとかしたいよね」
ほとんどの音楽院は学費がかなり安く、パリ市民の税金で賄われている。そのお金はどこにいったのか、と疑ってしまうほどに粗末なピアノを使用していることも多い。
「あぁ。あんたいたの。なんか用?」
もうすでに仕事を終えたのでサロメとしては顔も見たくないわけで。扱いもぞんざいになる。
しかしここからが男にとっては仕事。さらに一歩近づき、頭ひとつぶん上から見下ろす。
「黙っていて悪かったね。本当は私は——」
「調律師でしょ。最初からわかってたわよ。それもコンサートチューナーかしらね」
それも相当に経験のある。調律師は結束の固いギルド、のような一面もあるが、そういうのを好まないサロメにとっては面倒な生き物、という印象しかない。舌を出して吐き気を催す。
言葉をなくして目の前の少女を見つめる男。まわりのコーヒーを啜る音や食事をする音、そういったものがやけに大きく聞こえるようで。
「さすが。ちなみにどこでわかった?」
徐々に興味と興奮の色合いに表情が変化していく。役割までわかるだなんて。笑うな、というほうが無理。
コンサートチューナーは、自宅への定期的な調律などよりも、コンサートやコンクール、音楽祭といった大きなイベントなどに同行することを主とする調律師。プロからの信頼が厚い人物も多く、相応の腕を持っていることが条件となる。
眠そうな、それでいて不機嫌そうな目つきで、サロメは手にしたハンマーを一瞥する。
「このチューニングハンマー。カーボン製の軽量型は『調律を齧ってみようかな』とか考えてる程度のヤツはまず買わない。アメリカの物理学者スティーブ・フジャンが生み出した、しなりを極限まで抑えたオーダーメイド品だもんね」
航空機の機体にも使われる、軽くて丈夫なカーボングラファイト。この素材を使ったフジャンの特製ハンマーは、パーツを分解できて好きな長さや角度を選べる優れもの。物理学者らしく、回す際の『ロス』を減らすことを目的とされ、非常に疲れにくい。
わざとらしく拍手で返す男。子供扱いでもするかのように。
「そこまでご存知とはね。ご名答。よかったらプレゼントしよう。もう一本あるし」
そして余裕の表れ。お近づきのしるし。調律師への手土産としてはこれ以上ない逸品。
ふーん、と再度ハンマーを見やり、そして笑うサロメ。貰えるものは有り難く。
「気前がいいわね。目的はなに? 簡潔に」
だが面倒なことはお断り。そして断ってもハンマーは返さない。もうこれは自分のもの。いつかは折れてしまうのだから、予備として何本も持ってても困らない。
なんとなくこの子の性格は把握した。男は詰めの段階に入る。
「ま、余計な言葉はいらないね。率直に言うよ。コンクールの調律、キミが代わりにやってみない?」
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