第208話

 なんとまぁ、よく気づく子だこと。ここまでくると清々しささえ感じるキアラ。隠すことなどなにもない。


「そういうこと。フランスではクラシックが多いけど、ニューヨークなんかじゃ毎晩のようにライブハウスでは演奏されてるし。じゃ、一曲」


 それよりも弾いてしまおう。調律された通りに、軽やかに。しなやかに。ピアノが導くまま。


 ホラー映画のオープニングと、劇中の演奏シーンでのみ聴くことのできる美しい楽曲。映画マニアのサロメはすぐに悟る。


「ヴィクター・ヤング楽団『星影のステラ』。スタンダードナンバーね。どう? 具合は」


 このあたしの調律に文句なんかないだろうけど、という自信を覗かせる聞き方。時間と道具があればさらによくなるが、今はこれが精一杯。


 物珍しそうに見ていた他の客達も、その安らかなリズムに酔いしれ、いつもよりコーヒーが染み渡るような気さえする。カウンターにいる人々、テーブル席の人々。みな、時の流れがまろやかになるのを感じ取る。


 演奏するキアラの指も踊る。ピアニッシモ、フォルテッシモが思うままに奏でることができる。そんなライブをできるほどの腕前ではないとわかりつつも。


「弾きやすくて、でもしっかりと芯がある。今までと全然違う」


 少し勘違いしてもいいのだろうか。そんな楽しい悩みが浮かぶほどに。


 だがこれは調律をしただけ。まだこのピアノは美しく、優しく、鋭く、可愛らしく響かせることができる。その確信をサロメは持っている。


「しっかりとした整調と整音をお望みなら、三区のアトリエ『ルピアノ』によろしく。誰かしらがやってくれるわ」


 あたし以外の男達が。次からはスイーツ食べる時も下調べをして行こうと決めた。今回のようなことがないように。


 この子、本当にプロなんだとキアラはここで再確認。三区のアトリエ。心に刻む。


「あなたはやってくれないの?」


 やたらと大きめな態度は置いておいて、はっきりと伝えてくれるのは有り難いこと。おかげでおじいちゃんのピアノはこうしてまた輝く。


 指名が入るのは本来ならば嬉しいのだが、サロメには手放しで喜べない事情がある。


「あたしはグランドピアノ専門。今回はたまたま。まぁ、やらないわね」


 早速フラれたわけだが、どこかキアラは清々しい。


「ふーん。でもありがとう。やっぱり調律って大事だねー」


 仕事そっちのけで弾いていたい。拙い腕だけれども、ピアニストも兼任で働かせてくれないか相談してみようか。オーストリアのウィーンなんかには、ほとんどのカフェにピアノがあるわけだし。そういう趣があるお店もいい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る