第211話
さらにソファーに沈み込みながらサロメが聞いた情報を思い起こす。
「いや? 野良の調律師らしいわ。たしかショパンコンクールでもファツィオリだけは、メーカーの人間じゃなくて雇ってたわね。そんな感じ?」
かつてスタインウェイ、ヤマハ、カワイがメーカーから派遣され、整調や調律などを手分けして担当している中、二〇二一年のコンクールでは、ベルギー人の調律師がファツィオリの全てを担当した時があった。そのことを思い出した。
「僕ですらそんな話きたことないね。きても断るけど」
お手上げ、とでも言うようにレダは所感を述べる。ただ、呼ばれてもそれに対応できる。そんな怪しげな笑み。ちゃっかり自信はある。
しかしルノーにとって気になることがある。そんな男を雇うことになったところ。
「どこのメーカーだ? スタインウェイ……はないだろうし、ヤマハ……もないよな」
脈々と受け継いできた実績のあるところは、自社の者達を送り込むだろう。となるとまたもファツィオリか。他と比べても歴史は短い。色々と型破りに成長を続けてきたのであれば、今回もここか? しかし。
「メイソン&ハムリン」
それに対するサロメの返答の温度は低い。軽く舌打ちも聞こえてきそう。
一瞬の静寂のあと、耐えきれずレダが吹き出してしまう。
「ははッ」
まさかの角度から。だが固まりきったピアノ業界に一石を投じるような、そんな面白さを見出している。
そしてそれを聞いたルノーの反応。聞き間違えかと思うほどに何度も頭の中を反芻する。
「……は? あれは……コンクールとかには出てこないだろ」
メイソン&ハムリンは……通好みの一線からは引いた老舗という扱い。『アメリカのベーゼンドルファー』という名称で呼ばれたほどの名器であり、針金の一本に至るまで手作業。幻とまで囁かれるメーカー。店にあるグランドも一台のみ。
すでに会社自体は吸収されてなくなってしまっているが、いまだに根強いクラシックファンは多い。本国アメリカの大ホールの多い環境では、中小規模のサロンがメインだったヨーロッパとは違うコンセプトで設計されているため、音の持つパワーは随一。
相変わらずつまらなそうにサロメは粛々と会話を続ける。
「ショパンコンクール。ピアノの選ばれ方は知ってるでしょ?」
クラシックのコンクールで使用されるピアノには選考基準が存在する。ほぼ決まっているわけではあるが、ピアニストの表現力の幅を広げるために、ファイナルでは選べることが多い。
シドニー国際などは参加者がグループ分けされ、そのグループごとに異なったピアノを使用する。開催する年によっても変化したりするが、ある程度は固定化されている。ほぼ全てでスタインウェイが選択肢には入っているわけだが。
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