第206話

 だが、それこそがサロメにとっては手間が省けて助かること。『なにもやらない』ことこそが素人には一番いい。そんなに技術は安くない。


「さてさて」


 そう言うと、ピンを回すことをやめて外した鍵盤蓋などを戻し、元のピアノの形に構築。これで完成。


 ただ鍵盤の確認をしていただけにしか見えなかった男は、呆気に取られて声が裏返る。


「え、もう? もう終わり?」


 もしかしてそんなにおかしくなかった? と勘違いしてしまうほどに早い。先ほど弾かれていたジャズ。その音を思い出してみるが、やはり違和感はあった。自分が間違っていたのか? そう悩みだす。


 そのリアクション。案外サロメは好き。驚かすのも驚かされるのも。口角が釣り上がる。


「なに? 全部あたしに任せてくれるんでしょ? ほら、あの店員に弾かせてみなって」


 音の確認のためにキアラを呼び出すように告げた。弾く人物にとっての最善であること。それが自身の考える調律のあるべき姿。


 呼ぶ前に男は先んじて音の確認。たしかに明瞭でハジけるような、心地よい響き。だが、それだけではない。


「なるほど。そういうことか」


 まだ演奏を聴いたわけでもないのに、キアラの『指』に合わせた、清涼な高次倍音を消さない調律。その洞察力と、即席で可能にする技術に心酔してきた。


 高次倍音は、ひとつの音に対してn倍の周波数を持つ音。例えば二二〇ヘルツのラの音であれば、基音の四四〇ヘルツのラの音は二倍の高次倍音であり、逆に一一〇ヘルツのラは低次倍音となる。


 ではなぜサロメはこの調律を施したか? 演奏を聴いたわけではないが、先ほど皿を持ってきた時にとあることに気づいたがゆえ。


 男に声をかけられ、不可解な顔つきでキアラはピアノに近づく。


「てか、え? 私?」


 レジは同僚に任せておくとして。調律を頼んだのは自分だけども。まさか試弾をすることになるとは。いや、でもウチの店だし、自分がやるべきなのか……なんだか答えが出そうででないもどかしさ。とりあえず……やってみるか。


 その背中を押してサロメがイスに座らせる。さっさとやれっての。


「いいのいいの。あたしも無理やりやらされてんだから。それに、フォルテッシモが弾きづらかったのも改善してある」


 そこまで気にすることではないかもしれないが、やれることは全てやる。手を抜くことはできない。


「……どうして?」


 渇いた唇を舐めるキアラ。無意識に呼吸が浅くなる。注文なんてなにも言っていなかったのに。なぜそこに気がついた? たしかに欲しい音量が出ないことはあったが、ただの趣味であるために気にしないようにしていたこと。

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