第178話
だが、人生はなにが起きるかわからない。続けてブランシュがひとつ例を出す。
「……世界には五〇歳を過ぎてから初めてピアノに触れ、あのフジ子・ヘミングと共演を果たすまでになった人もいます。何曲も何曲も、でなくてもいいんです。一曲だけでも。その曲も、毎回違った風に聴こえてきますから」
しかもその人が選んだのはリストの『ラ・カンパネラ』。なぜそんな難しい曲を、という理由については『家族を驚かせたかった』がベースらしい。立派な理由だ。
そこまで言われると、ひとつくらいは曲を弾けるようになってみたいもの。リュカは少し悩みつつも、助言を求める。
「……なにかオススメある? できれば簡単で短めなところから」
長くて難しい曲は、たぶん途中で挫折する。簡単なヤツで、なおかつ楽譜もその中でも易しいやつで。あるのかこんなの。
うーん、と唸りながら何曲かに絞り込むブランシュ。候補はいくつか。その中でも有名なもの。
「……そうですね、では有名ですがベートーヴェン『エリーゼのために』なんかいいかもしれません。やはり耳馴染みのある曲のほうが覚えやすいですし」
曲名を言われて、初心者でもすぐに頭に浮かぶ曲。ただ、難しさに個人差があるのでなんとも言えないが。
その選曲にはレダも賛成。手が大きいと高速のパッセージ部分も多少楽になる。
「そうだね。まず、一曲覚えた、っていうところから変わっていきますから。今はネットで楽譜や講座も手に入りますし。敷居は相当低くなりました」
ひとつの話がついた模様。ゆっくりとでもピアノを楽しんでもらえたら。そんなことを考えつつ、レペティションスプリングの調整。ハンマーの上がる速度を均一に。
しばらくは無言で作業を見ていたリュカだが、ふと、ブランシュが手に持っている楽器に目をつける。
「ところで、ブランシュさんはヴァイオリンを弾くんだろう? どんな感じなんだい?」
どんな感じ。つまり、聴いてみたいと。あまりヴァイオリニストは呼んだことがないため新鮮。せっかくなので。
突然話を振られたブランシュは「——え」と、吸いぎみに声は高い。
「……いや、あの、ですが調律中はあまり音をさせてはいけないので、弾くのはまずいかと……」
音で邪魔をしてはいけない。調律師は些細な、小さな音を拾い上げる。そこにヴァイオリンが入ってしまっては、仕事に差し支えてしまう。
狼狽える少女の姿を見て、ちょうどキリのいいところまで終えたレダが許可を下す。
「大丈夫、整調はそこまででもなかったから、一旦区切って試弾してみよう。アッコーライ作曲『ヴァイオリン協奏曲第一番イ短調』、いけるね?」
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