第174話

 開幕から単音パッセージ。単音ゆえに、和声的な色彩がなく、さらにテンポが取りづらい上に連打が抜けやすい。そういった細かな難しさから、超高速かつ音の多さからくる物量譜面まで、様々な嫌らしさを持った美しい幻想曲。世界的なピアニストですら、誤魔化して弾くこともあるほどに。


「え、ちょっと待って。僕もそれ聴きた——」


「早く行け。お前はお前の仕事をしろ。自分で試弾する準備をしながらな」


 ここに残ろうとするレダを、強制的に退出させるベアトリス。早く帰りたいと言っておろうに。


 珍しく調律のモチベーションが高いサロメ。人が生きていくには『怒り』という感情が不可欠、とどこかで聞いたが、それを今体感している。


「はっ。もう他の調律で満足できなくなっても知らないけど」


 初めて触るピアノ。音の特徴もまだなにもわからない。倍音の響きは? 合う作曲家は? 基音は四四二ヘルツでいいの? なにもわからない。だが、確信はある。今、地球上で一番上手くギャラクシーを調律できるのは自分だと。


 なんでかいがみ合っているが、そもそももう会うこともないだろう。ベアトリスは場を落ち着かせる。


「心配するな。今後、私が弾くことなどもうない。それと約束しろ。上のヤツにも言っておけ」


「?」


 突然目線を向けられたレダは、首を傾げる。上? ブランシュちゃん?


 すぅ、っと息を吸い、一気にベアトリスは言い切る。


「今日、私が弾いたことは忘れろ。演奏も。なにもかも。私はここに来ていなかった。いいな?」


 なにもなかった、と。誰かの目を避けるように。


 不思議に思いつつもサロメは問いただす。


「別にいいけど。なに? なにかから逃げてんの? 怪しいねぇ」


 裏があるなら、それが面白いことに転んでいくなら、誰かに言っちゃうかもね。そんな含みを持たせて。


 ジトっとした目つきで「余計なことをするな」と牽制しつつ、ベアトリスは追加で説明。


「私はもうピアニストじゃないのでな。ただの花屋だ」


 面倒なことに巻き込まれたくない、という嘘偽りはない理由。今日は店にいたことにする。


 それがどういうことに繋がるのかはサロメにはわからないが、多少は条件を呑んでやってもいい。


「ふーん、でも、あたしが満足する演奏ができなかったら、誰かにバラす。こっちのほうが燃えるでしょ?」


 物事にはリスクを。そうでないと感覚が鈍りそうで。どんなものでも楽しめるように。


 たとえ『イスラメイ』だとしても自信はある。ベアトリスは即答。


「いいだろう。万が一もないがな」


 お互い、誰とでも衝突する特性を持っていることはレダも知っていた。まぁ、こうなるよな、と。とはいえ。


「なんだかんだ仲良くやっていけそうだね」


 この二人が組んだら面白いことになるのは決まっている。それを聴くことができないのが残念だけど。


 なにかを期待されているようで、非常に不愉快だが、今日だけはベアトリスも目を瞑る。自分に言い聞かせる。


「今日限りだ。お前達のことも忘れる。お前達も私のことを忘れろ」


 これからは、これからも八区の花屋の店主として。店主としてだけ。生きていく。


 しかし一点、見誤っていることがある。お互いにお互いが最高の力を発揮した時。その時きっと。それを小さくレダは呟く。


「……キミの本気の演奏。サロメちゃんが忘れられるかね」


 それはわからない。だが充分に可能性はある。だってそうだろう。キミは——。

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