第173話

 示し合わせたように両者からの圧を受け、ブルっと体が強張るレダ。視線が致命傷のように刺さる。


「……あれ? 決定事項?」


 両者がやる気になったのはいいんだけども。僕はギャラクシーに触れない、ってこと?


 キャリーケースからチューニングハンマーを取り出すサロメは、キックカーの前まで移動し、上から見下ろす。


「安心しなよ。ムカついたから本気でやるわ。気に入ったら買い取っていいからね」


 そして満面の笑み。だが奥には怒気がこもっている。力で屈服させる、そういう合図。買い取っていいかどうかは持ち主が決めることのはず。つくづく勝手に物事を決める。


 しかし、そういうは輩の鼻っ柱を折ることを、ベアトリスは嫌いではない。そっちがその気なら、とこちらも力技。


「くだらん。好きな曲を弾いてやる。サロメ、とか言ったか。退屈させるな」


 相手の土俵で勝つ。それこそが完全勝利となる。選ばせた曲を完璧に弾きこなす。もちろん人によって得意とする作曲家や時代が存在する。だがそれすらも指定しない。


 その余裕たっぷりの言い草に、すでに壊れかけていたサロメの歯止めが完全に意味をなくす。


「ほぉ……ならバラキレフ『イスラメイ』。これもイケるんでしょ?」


 ニヤニヤと悪どい笑みで爆弾を投下。威力は最高、最大級の衝撃。


 それに瞬時に反応したのはレダ。非常に恐ろしい曲名が聞こえた気がした。


「あのー、サロメさん? 『イスラメイ』ってもしかして、もしかしなくてもあの——」


 と、そこで言い淀み、その先は空気に紛れて霧散していく。いやいやいや。その曲は普通リクエストしない。それに断られるのが基本。弾き手の体調が良くて。なにかいいことがあって。冷蔵庫でも買う時のように「思い切って……やっちゃおうかな」みたいに、ポジティブな時に自発的に弾く。かもしれない曲。


 ほんのりと制止されているのだが、そんなもので推進が止まるサロメではない。


「どうする? 先にごめんなさいって謝っとく? 今なら許してあげても——」


「かまわん。せいぜい弾きやすいピアノにしておけ」


 平常心。心臓のピッチも変わらず。欠伸をしたベアトリスは「つまらん調律なら演奏中であろうと寝る」と睨みつける。曲がなんであろうと、気の向くままに鍵盤を叩くだけ。例えそれが——


 


 最高難易度の曲であったとしても。




 ミリィ・バラキレフ作曲、東洋的幻想曲『イスラメイ』。その正体は、あのフランツ・リストですら舌を巻いたという超高難易度のピアノ独奏曲。あまりの難しさから、楽譜には必ず難易度を抑えた別案が載っているという規格外っぷり。

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