第160話

 そんな朗らかな雰囲気のまま、ヴァイオリンを構えた少女に対し、あることに気づいたレダが目を見開く。


「……まさか、そのヴァイオリンて——」


 そこまで詳しくはないけれど。だが、まるで弾きこまれたベーゼンドルファーのインペリアルを前にした時のような、無言の圧力。周囲の空気を喰み、場を支配する圧倒的な存在感。それを目の前のヴァイオリンからも感じる。


 あまり大きく事にしたくはないけれど。否定する理由もないので少女は先んじて事実を述べる。


「……はい、ストラディバリウス『シュライバー』です。まだ……扱いきれていませんが」


 謙遜しつつも少女は集中とリラックスの中間。香りを全て指へ。血が全身に巡るように。


 色々とよくわからない生き物。香りを音に。そしてストラディバリウスを所持する。でも音楽を専攻していない。そんな人物には初めて遭遇したレダは、こっそりとサロメに耳打ち。


「彼女、何者?」


 先ほどまでお菓子で子供を釣ろうとしていた人物が、怪しすぎる、と警戒しだす。


「いいから。聴きましょ」


 自分もよくわかっていない、とサロメは自覚しているので、あまり下手なことは言えない。適当に流す。


「それでは、いきます」


 演奏に入る。少女が宣言してから、感じていたプレッシャーが霧散するかのように『シュライバー』は仮面を剥ぎ、曲に合わせた顔を見ていく。


 たっぷりと感情の乗った静かな開幕。ゆったり。しっとり。だが唐突に目が覚めるようにハジけたかと思えば、またすぐに淑やかに。ジェットコースターのように揺れ動くこの曲をレダは知っている。


(これは……ポール・デュカス作曲『魔法使いの弟子』。水、と先ほど言っていた。なるほど、水が溢れて止まらなくなる、という描写があったはず。それにしても——)


 どこか怪しげで、しかしコミカルで。不思議な世界観を見事に表現。物語調になっており、作品を知っていれば自ずと絵が浮かぶ。


 ほぼ同じ感想を抱くサロメ。目を瞑りながら、音の奥に潜む香りとやらを堪能。


(——上手い。響かせる序奏、箒の動き出す滑稽さ、魔法が止まらず焦る仕草。目に浮かぶほど描写的。本来ならオーケストラでやるはずの曲なんだけどね)


 香水から感じたもの。それはシーノートの『水』とオリバナムの『幻想感』、そして奥に隠れたスパイスの刺激的な『賑やかさ』。その結果、指に任せるままに生まれた曲、生涯に二〇曲ほどしか残さなかったデュカスの傑作『魔法使いの弟子』。


 初めてストラディバリウスを弾いてみた少女は、心地よい微睡に酔う。


(……すごいですね。まだ弾きこなせていないにも関わらず、音が深い。感情ひとつひとつの振り幅が以前にも増しているように感じます。ですが——)


 普段使いしているヴァイオリンとは、演奏のベクトルが違う。バランスがよく、華やかで色彩のある音。そちらとの比較。やはりヴァイオリンは楽しい。ひとりで本来は演奏する曲ではないので、アレンジをきかせる。また新しい魔法使いの誕生。

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