第155話

「いや、無意識にあたしが終わらせたはず。その境地にたどり着いちゃったか、って自分で怖くなったわ」


 どうやらサロメ本人の脳には、違う映像が映っていたらしい。ひとりで終わらせることができた、と。


 だが、そんな言い訳が通じるわけもなく、レダは躊躇いなく話を進める。


「で、返してほしい貸しってのは、かなり面白いピアノでね。ぜひキミもどうかなって」


 協力依頼。ひとりでできないこともないけど、他にも面白いものがあるわけで。込み上げてくる興奮。ダメだ、まだ笑うな。三五秒、三五秒で内容を伝えよう。


 言い分としてはわかるのだが、生憎そんな貸し借りなどで揺れることのないサロメの目は冷ややか。


「社長は? あたしまだ新人なんで。やっとスティックの対処法がわかってきたところ。力になれないわ」


 そう言いながらレットオフ、弦の振動を妨げないようにする装置の調整。狭くなっていたため、音色が詰まり気味だ。


 あの手この手で逃げようとする彼女を、レダは奥の手で誘い出そうとする。


「だけど、依頼のものとは別に、そのお宅に置いてあるピアノを知ったら、やってみたくなるはず。少なくとも、僕は本業のほうをキャンセルしてでも見てみたいね」


 調律師は様々なピアノに触れる。それゆえ、時々とんでもなく珍しいものに出会うことはある。ピアニストを目指す若者達は逆に、ヤマハやカワイといった値段も手頃でいい音のピアノを選んだりするが、そうではない、単純に興味をそそられるものを選ぶ人も一定数いる。


 ブリュートナーの『クイーン・ヴィクトリア』や、たった今調律しているフォルテピアノなど、それこそレア中のレアも触れてきたサロメ。とりあえず惹かれる部分はないが、話だけは聞いてみる。


「はぁ? どんな? 全然だったら今すぐ帰ってもらうし、貸し借りとかこれで終わりよ」


 一方的に自身にとっての好条件を突きつけるしたたかさ。言うだけはタダだし。


 ふむ、とどこから攻めていくか悩むレダだが、とりあえずはジャブで軽く。


「ドイツで最大のピアノ生産を誇るメーカーは?」


 聞くだけ野暮かもしれないけど。キミには。


 うげ、とやる気が存分に減少していくサロメは声を荒げた。


「なんでいきなりクイズになってんの。んで、シンメル」


 一応はちゃんと答える。ベヒシュタインやブリュートナーといった、世界的なピアノを製造しているドイツだが、販売している台数でいうと全くランキングは変わってくる。値段や大きさなど、家庭に合わせたメーカーが上に来るのは必然。


 当然だよね、とでも言いたげに余裕綽々とレダは拍手。BPMは一四〇。


「正解。シンメルといえば、まさに『ドイツ』というような、重厚で煌びやかな音色。癖が少なく、万人受けするピアノだね。特にアップライトの代名詞にもなるほど、小型のピアノに強い。てなわけで、お兄さんと一緒に行こうか。お菓子あげるから」


 かなり危険な誘い方をする。その笑みにサイコな雰囲気がまとわりつき始めた。

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