シンメル『グラスホワイト』

第154話

「やぁ、そろそろ貸しを返してもらいたくて」


 そう、にこやかな笑顔で微笑みかけるのは、アトリエ・ルピアノ所属の調律師、レダ・ゲンスブール。本業が他にあるため副業で、ではあるが、その調律技術は様々なピアニストの調律を任されるほど。


 その彼が今いるのは、モンフェルナ学園のレッスン室。着脱可能な吸音板が装備され、残響時間を操作すことができる。床のフローリング、壁は白とライトグリーンを基調とした爽やかな色合い。そこには二台のピアノ。一台はヤマハのグランド。そしてもうひとつは——。


「……今、あたしがなにしてるかわかる?」


 振り向かず、彼とは目を合わせずにイスに座りながら、サロメは作業に集中する。


 木目の美しいピアノ。だが、隣にある黒く光るピアノよりも随分と華奢な印象を受ける。そして足元のペダルは五本。弦も平行弦。フレームがなく、全て木でできている。いわゆるフォルテピアノ。モダンピアノの前身。


 全て木でできている、ということは温度と湿度の影響をかなり受けやすい。一度の調律ではすぐに狂うため、何度も何度も調律する。木ゆえに、ゆっくりと馴染ませたいところだが、生憎時間がないため、急ピッチで進める。それでも明日の朝には若干の狂いが出ているかもしれない。


「もちろん。まさか『ヨハン・ゲオルグ・グレーバー』の一八二〇を調律しているとは思わなかったけど」


 純粋にレダは驚いた。学園にいると聞いて、寄ってみたらすごいものがある。


 相当に現代のピアノとは違う代物。しかもアクション部分は『ウィーン式』と呼ばれる跳ね上げ型。現代の複雑で様々な補助機能がついているものとは違い、非常にシンプルにできている。


 その一方で、あまりにシンプルな構造すぎて制御が効かず、『正確に跳ね上げづらい』という本末転倒な仕掛けがある。慣れない限り普通に音を出すことすら難しいが、逆に言えばその力加減さえ体得してしまえば、モダンピアノより深い段階に踏み込んだ演奏を可能とするのだ。


「貸しってなに? なんかあったっけ?」


 ピンをハンマーで回しながら、オクターブを合わせるサロメ。過去ばかり考えていてもしょうがない。未来を考えるほうが大事だ。だからなにもなかった。


 そんな都合よく記憶を改竄しようとする相手に対し、レダは優しく過去を呼び起こす。


「グロトリアンのとき。眠ってしまったキミの代わりに調律を終わらせたのは誰だか、知ってる?」


 かつて、古書店に置かれていたグロトリアン・シュタインベークの『シャンブル』。その調律中に、耳の良すぎるサロメは書店内の共鳴雑音により意識を失い、そこへ駆けつけたレダが代わりに調律を行った、という事件。のはずなのだが。

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