第146話

 リサイタルなどで客席に座っていても「耳元で囁かれているような」と表現する者もいるほど、芳醇で豊潤な音。そしてロシアのピアニストは音楽だけでなく、哲学や宗教、量子力学などの学問に傾倒している者も多く、『音』そのものを霊感やスピリチュアルな捉え方をしている。


「……フランス的な音とは全く違う、自身の内側から漏れ出る音楽。それがロシアピアニズム」


 というランベールの考え方も、またひとつでしかない。曖昧で全貌が掴めないところも魅力。


 ルノーはまたひとつ、ピアノの奥深さを知った気がする。


「ま、彼女なりのピアニズムもぜひ聴かせてもらいたいね。で、どう? 感触は」


 問題はそちら。我々の考察よりも、家主のピアノ調律。タッチ感。


 ポロン、とひと通り掻き鳴らしてみるランベールの指は滑らか。


「悪くないです。弾き心地と軽さ、レスポンスも申し分ない」


 あくまで自分の感覚。プリシラは自身よりも数段上の弾き手だろう。同じように感じるかはわからないが。


 しっかりと打鍵の力が伝わるか、その確認をするルノー。うん、と頷く。


「棚板もべッティングスクリューも問題なし。アクションも良好。スプリングもいい感じ。やっぱり分けてやると早いね。となると、お嬢様の出番だな」


 オヤツを寝て待つあの。場は整えたが、さすがに最初ということもあり不安がある。やっぱ自分がやろうか、と。ドアを見つめる。


「呼んできます」


 その緊張がランベールにも移ったのか、ドアノブを握ろうとする手が若干震える。息を吐き、開けようとした瞬間。


 同じタイミングで向こうからドアが開き、サロメが入り込んでくる。


「終わったみたいね。もうちょっと時間かけたほうがちゃんとやった感を出せるから、次からはもっと遅くてもいいわよ」


 それなりに時間を使って作業をしたランベールではあったが、それでも文句を言われる。


「……お前、なにをどうしたいんだ?」


 やっているフリ。アトリエはそんなことを考えなくても、結果で返す店。清流にドロっと、濁りが生まれたようなムカムカに襲われた。


 しかし長年やってきたサロメの処世術は、彼女自身そう簡単に抜け切るものではない。


「なにが? そうやって『頑張ってます』っていう姿勢も見せていったほうが、本人も嬉しいでしょ。ただでさえあたしが若くて可愛いって点で怪しんでたんだから」


「余計なものを付け足すな。結局は腕次第だろ、ほら。道具は貸してやるから。やってみろ」


 ずい、っとハンマーを手渡すランベール。握る手にも力がこもる。

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