第143話

 止められた手を振り解き、サロメは我が道を行く。


「よろしくー。あたしは寝る。あ、あとそれと」


「? なんだよ」


 もうどうにでもなれ、そんな気概がランベールに漂ってきた頃。というか今、寝るって言ったなこいつ。


 サロメは付け足すついでに注文も。


「……あの人、たぶんネイガウス派。左手のバスにかなり重点を置いているだろうから、タッチに細心の注意払っておいてね。あとはこっちでやる」


「——!」


 バタン、という音の残響。サロメの去っていったドアをランベールは凝視した。数秒置いて声を絞り出す。


「……ネイガウス……どこで……!」


「驚いたな。そこまで気づいたのか」


 ちなみに私はわからなかった、と一見落ち着いているようにも見えるが、内心ルノーも冷や汗が流れた。そしてのけぞる。


 目線の合ったランベールは興奮気味に問いかけた。


「一体どこでそんなこと……」


 まだ演奏も聴いていない。さらに生態がわからなくなる。あいつ、もしかしてエスパー的ななにか——。


 経験から、なんとなく先に流れを掴めたのはルノー。情報を共有する。


「左手のバスを重視する弾き方。なんだか知ってるか?」


 もちろん、重要じゃない音域などないのだが、低音部を特に細かく追求する理論がある。とある国の音楽技法。


 それについて、心当たりがあるランベールの心境は複雑。


「……えぇ。ロシアピアニズム。倍音を増やすという弾き方です」


 昨日も触れた、真珠の音。


「さらにネイガウス派。おそらくは彼女が先ほど、ほんの少しだけ癖で弾いたところから読み取ったのだろう。いわゆる鍵盤を『滑らせる』弾き方。腕橈骨筋や前腕二頭筋の発達具合。言われてから当てはめると、たしかに、とはなるが」


 ルノーが解説した通り、ロシアピアニズム四派の中でもネイガウス派に多いのが、鍵盤を上から押すのではなく、手前もしくは奥に向けて指を滑らせる弾き方。滑走するように指を使うことで、力をその方向に逃すことができる。なぜか?


 上から押すことにより強い音を生み出すことができるが、下まで押し切ってしまうと、鍵盤が戻る際の音が濁る傾向にある。粒立った軽やかな音には不釣り合いで、余計な力が入ってしまうことから、もちろん全てではないが要所要所で滑らせる。


 親指を前方に突き出し気味の基本ポジションと、それを軸としたレガート。『割れ物を置くように』とも称される柔らかな音。鍵盤の深さとスピードを意識した音の強弱。挙げればキリがないが、そう言った細かい理論が体に染み込んだロシアピアニズムの継承者。

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