第142話

 それと同時に期待してしまうもの。昨夜。あいつは。


『曲に合わせて』


 調律を施した。


 驚きつつも、プリシラには刺激的にうつる。自分専用のピアノ。せっかくならば。


「んー、面白そうだから『私に合わせて』お願いできる?」


 そうして肩を組まれたサロメは、ささっと準備に移る。


「いいわ。まずは普通に整調からやるから。しばらくは寝てるなり買い物でも行くなり。好きにしてて」


 ここからは調律師の範疇、と一線を引く。スイッチが入る。グランドピアノは、このあたしの獲物。


 空気が変わったことを感じ取ったプリシラは、パッと手を離した。口笛もセット。


「オッケー。じゃあオヤツ買ってくるけど、なにがいい?」


 気を利かせて外へ。楽しみ、という感情が彼女を突き動かす。一六区はスイーツなどのお店が多い。困ることはない。


 ということをサロメはすでにリサーチしていた。帰りに買って帰ろうと。しかし今も食べたい。理屈じゃない。


「ビスキュイ・ド・サヴォワ。シブースト。あとは適当に。この辺に有名なとこあったはず」


 もういっそ調律やめようか。そんなことで頭がいっぱいになってきた。ピアノが霧のように消えていく。


 店の予想がついたらしいプリシラは、歩くルートを頭に入れる。その際に指が鍵盤を弾くように動く。


「たぶんあそこかなー……じゃ、待っててねー」


 それだけ残し、軽く着替えて部屋から出ていった。ドア越しに鼻歌が聴こえる。


 窓から街を見下ろすサロメ。ここは三階。いい景色だ。パリという感じ。よし、気合いを入れて。


「じゃ、整調よろしく」


「おい」


 早速サボろうとする調律役に対して、荷物持ちのランベールが肩を掴む。


 隣の部屋に行こうとドアノブに触れた瞬間に止められ、「うっ」と声が出たサロメ。振り向くともう不機嫌。


「気になるとこあったら言うから。そういうことで」


 手でピアノのほうへ促す。力仕事は男の出番。私はほら、か弱いし。まだこっち来たばっかりで色々と。


「お前がやるって言ったよな?」


 脳裏に焼きついた言葉を再生するランベール。やる、ということは整調から整音まで。ひとつ残らず。さらには後日の調律も含め。全部を意味する。


 なるほど、と手を叩いたサロメは把握した。


「じゃ、調律だけに変更。他は任せるわ。整音もまぁ、口は出すけど。防音にまで神経使う人だし、そんなにそのあたりは問題ないんじゃない?」


 調律に集中したい、雑念を払いたい、とそれらしいことを並べているが、手にはアイマスクを持っていることをランベールは察知していた。


「ないんじゃない? って……」


 適当すぎる、というより自由すぎる。たしかに結果的にいい調律になればなにも問題はない。調律はチームで行うことも多い。全体的な修理、オーバーホールなどは総出でやることも。だが、まだよくわからないヤツが先陣を切って寝ようとしているのは、どうなんだ。

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