第139話

 そんな想いが通じたのか、ランベールは首を振った。


「……いえ、連れて行ってください。こいつの調律、気になります」


 昨夜のこと。そして、自分とは違う調律。同じメーカー。申し分ないチャンスだ。こいつが本当に実力があるのなら、学べることもあるかもしれない。


 だがサロメは舌を出して挑発。


「はっ。やる気なくすかもよ」


 そんな悪態もランベールには効かない。やるべきことが明確になった。


「場所はどこですか? 今度こそ個人宅ですか?」


 このサイズのグランドということは、どちらかというとそちらの傾向が強い。まさかコンサートホールなんてことはないだろう。もしくは小規模な教会など。


「高級住宅街の一六区だ。音楽院に通う生徒さんのお宅。防振架台も防音装置もあるんだけど、もう少し音を絞りたい。でもタッチや音色は変えたくない、というオーダーだ。いけるか?」


 やたら細かい指示だが、マンションなどで弾く場合には必ず付いてくるのが騒音問題。仕方のないこととはいえ、すでにこれだけやっているのに、とルノーなら頭を抱える案件だが。


 サロメは日常茶飯事、とでも言うかのように目を瞑ってリラックス。


「当然。問題ないわ」


 まだ朝が早いこともあってか欠伸が出る。いつも通り。緊張するようなこともない。なにも。


 ピアノというものはメーカーが違うだけで、使用している木材が違うだけでも相当に違う。弦を張るピンの刺さり具合、通称『ピン味』と呼ばれる部分も、木材によって違いが出る。調律に関わる重要な部分だ。


「お前、エストニアは調律したことあるのか?」


 余裕そうな態度を見て、冷や汗をかくランベール。自分とは反応が全く違う。焦りなどが見えない。


 睨みをきかせた視線をサロメは合わせた。


「ある。何度も。なにか問題でも?」


 あんたと一緒にしないで。そんな声まで追加されていそうな口調。


 それならいいのだが、一体どこで、とランベールは落ち着かない。


「いや……なんでもない……」


 そしてゆっくりとそのピアノについて思考する。一六区とはそんなに細かい決まりでもあるのだろうか。


(おそろしく面倒な注文だ。だが、音楽院に通っているというのであれば、仕方ない部分もある)


 電子ピアノでは弾く感覚に大きなズレがある。均一な音になっているので、今弾いた音の調子はどうだ、ピアニッシモはちゃんと表現できていたかなどはわからない。ゆえに、生のピアノでなくてはいけない。デリケートな問題だ。


「なにボサっとしてんの。早く荷物。積んで」


 サロメの号令で一気にランベールは現実に引き戻された。


「俺のでいいのか? お前のはどうしたんだよ」


 道具についても、自身の手に馴染んだものというものがある。ひと通り揃え、使い込んでいくことでより、調律に自信が持てる。はずなのに。


「いつも借りてたから。持ってない。今日も社長に借りるつもりだったけど、あんたのでいいわ」


 立ち上がったサロメは外に向かう準備。といっても手ぶら。道具は現地調達。もしくは人の。


 すたすたと出入り口のほうへ歩いていく背中を見ながら、ランベールは深いため息をついた。


「……どういう環境でやってきたんだよ……!」


 なにも持たずに。エストニアに何度も出会う機会がある。そんな調律師、サロメ・トトゥ。

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