第138話

 結局、お互いに仲間として歩み寄れた部分は特になく、平行線のまま時は過ぎる。八時前になったところでアトリエのドアが開いた。


「揃ってるな。じゃ、行くぞ」


 声の主はルノー。なんかひとり多い気もするが、まぁいいか。これも勉強。調律師は多ければ多いほどいい。


 気合いの入った社長、やる気の感じられないサロメの両名に挟まれた形のランベール。行くのはいいが、そろそろ目的をはっきりとさせておきたい。


「社長。全くなにをするのかもわかっていないんですが。調律って」


 こいつがやるんですか? と、目で合図。口に出すと噛みつかれそうなのでやめておいた。


 その不安もなんとなくわかるルノー。しかし答える声は明るい。


「言葉通りだ。せっかく来たんだし、サロメに調律をしてもらう。実はこれまた珍しいピアノの依頼が入ってな」


 ごそごそと手持ちのカバンから紙を取り出す。詳細な情報を記した資料。


 それを手渡され、目を通すランベール。珍しい、ねぇ。


「エストニアで充分珍しいですよ。なにがきても多分驚きませ——」


「エストニア『クイーン・アン』」


 食後のエスプレッソを優雅に啜りながら、サロメは今日の調律するピアノを発表する。深々とソファーに埋もれ、至福の時。


 その発言と、紙に書かれた内容にランベールはフリーズする。エストニア『クイーン・アン』。


「……は? ピアノ……?」


 クイーン・アン? クイーン・アンて……なに? エストニアの……グランド?


 実は……と、楽しそうにルノーが秘密を打ち明ける。


「なんとな。同時期にエストニアの調律が二台被るという奇跡だ。今後ないぞ」


 一台ですらほぼないのに。これは吉兆なのかなんなのか。ウチのお嬢様の到着でピアノ界がザワついてる?


 ということは。本日やるべきことは。ランベールは頭の中でまとめ上げた。手汗がすごい。


「え……今からそれを調律しに、ってことですか?」


「あんたは荷物持ち。やるのはあたし。車を運転するのは社長」


 役割分担もサロメにとっては容易い。美味しいところだけ自分が持っていく。


 足の力が抜けてソファーに崩れ落ちるランベール。


「エストニア……『クイーン・アン』……」


 昨日のピアノとはまた別。だが、同じメーカー。音は近いだろう。


「まぁ、本来は今日は休みだからね。ゆっくりしててもいいぞ」


 無理に、とはいかないルノーだが、本音を言えばついてきたほうが面白い。サロメの調律。自分もまだ知らない。どんな音を生み出すのか。一緒に聴こう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る