第132話

 アトリエの外では、興奮がまだ冷めやらない人々が夜の街を闊歩する。これから踊りに行こうか。飲みに行こうか。いつもなら早く閉まる店も、今日は深夜まで営業中。防音のガラスを隔てた店内では、雑踏が嘘のように深々と淡い雪が降り積もる。


 約三分ほどの短い曲。うん、いい感じ。調律も演奏も。しっとりと弾き上げた、いや、ピアノを歌わせたランベールは「寝たか?」と鍵盤蓋を閉じようとした。その時。


「どいて」


「うおっ!」


 唐突に背後から声をかけられたランベールは、咄嗟にイスから立ち上がり身構える。寝たんじゃなかったのかよ、と言いたいのだが、肺から息が漏れるのみ。


「どいて。天屋根と上前パネル、鍵盤蓋とか。弱音。全部外して」


 不機嫌にサロメは命令。お願いではなく、命令。アシスタントとして初対面の男を使おうとしている。


 それには流石にランベールも「はぁ?」と怒りを隠さず一歩近寄る。


「なに言ってんだお前。調律でもする気か?」


 寝るんじゃなかったのか? 気分屋すぎる。


「そう。調律する」


 あっさり。決定事項としてサロメは、勝手にその場にあるチューニングハンマーなどを拝借。手に馴染まないが、特に問題はない。


「おい、それ俺の——」


 と言いかけたところで、言葉が途切れる。


 サロメの視線。アップライト。ルービックキューブのように、彼女の中で立体的に音律が組み変わる。


 ランベールは背筋がゾクッ……とした。目の前の少女が自身の体を貫通して、その先のピアノを覗き込んでいるような、そんな圧力。自分よりもひと回り小さなその体に気圧される。


「なに?」


 ブツブツと口を動かしながら、サロメは「早く」と急かす。


「……」


 調律させてもらったピアノ。それにケチをつけてきた。もちろん、自分の腕前がまだまだであることは、ランベールが一番理解している。ならば。


「……わかった、やってみろ」


 非常に癪ではあるが、言われた通りにアップライト用の外装、そして内部にあるマフラーペダル用の弱音フェルトも外す。調律のお膳立てをし、後ろに下がった。


(これといって特別に濁りなどもなかった。ペダルも滞りない。さて、どう調律するつもりだ?)


 販売店での試弾であれば、問題ないはず。レダやルノーなら、と考えたが答えは出ない。お手並み拝見する。


「……」


 ほんのりと眠そうな眼でサロメはチューニングハンマーを睨む。が、ロングフェルトを取り出し、弦に噛ませる。こうすることで、ひとつの鍵盤に複数本張られている弦の、真ん中以外が鳴らなくなる。この一本の正しい音をどんどんと鍵盤全体に広げていき、複数ある弦をユニゾンして調和、というのがおおまかな流れ。


 基音となる『ラ』を音叉で四四〇ヘルツに合わせ、ピンにハンマーをかけて回すと、すぐに次へ。微細な動きだが、一瞬で終わらせるとさらに次。

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