第125話
そう言うと思っていた。頭の中を巡らせ、ラシッドは選曲完了。
「じゃあこれだね。キミの思い出の曲。ドビュッシー作曲『花火』」
弾くと決めたからには迷いなく指を滑らせる。だが一方で、音には迷いがある。なぜか? それはこの曲が『そういう曲だから』だ。
花火といえば、人々はなにを思い浮かべるのだろうか。例えば海外のサッカーで優勝した時、スタジアムで打ち上がる。ミュージシャンのコンサートで盛り上がりに合わせて打ち上がる。そんなところだろう。
だがドビュッシーが作曲したこの曲は、そういった賑やかさや楽しさからはかけ離れたような、不穏な幕開け。三連符のパッセージに、和音の花火。揺らぎ、濁り、戸惑う。美しき煌めき。だが、彼には一瞬だけ輝くために舞い上がり、そして消失していくその様が、なにか違うものに見えたのだろうか。
それと同時に、激しさも兼ね備えている。終盤、感情を爆発させたようにオクターブを駆け上がる。まるでそれこそ花火のように。何度も。何度も。そして、ピークに達してひと呼吸。割れる花。その後、両手でグリッサンドして下降していく。そう、演奏方法そのものが花火となっている曲なのだ。
そして最後。国家である『ラ・マルセイエーズ』の一節が流れ、泡沫のようにゆっくりと消える。ピアノのための前奏曲。その最後を飾る二四曲目。
「……なんでこの曲を?」
外を見るランベール。外はまだ明るい。夜空、というには早い時間。
グリッサンドは多少手を痛める。もはや技術でもなんでもなく、滑らせるだけ。ラシッドはジンジンとした指先を労わりながら、柔和に思い返す。
「覚えてるだろう。実技試験の時の曲だ。キミの演奏は素敵だった。荒削りだけど、夜空に咲く大きな炎の華」
サントル音楽院の入学試験。その二次審査。それがこの曲だった。なんでこの曲を、と当時は思ったが、記憶に残っているという点でいえばいいチョイスな気もする。
なんとなくランベールも覚えている。むしろ、忘れられるわけがない。緊張もしたし、帰りたくなったことも。
「買い被りすぎだ。俺より上手かったヤツなんてたくさんいた」
だが、あんたは俺を取ってくれた。感謝しつつも、口に出すのは憚られる。言いたくない、というのとも少し違うのだけれど。
「その時の実力よりも、面白いと思った子や可能性を感じた子の教えたい、ってのがこちら側の人間だ。そしてそれは当たりだった。今でも間違っていなかったと確信している」
教える相手は、まだ本人のピアノの完成図が全く見えていないほうがいい。いくらでも書き換えることができるから。ある程度軸ができてしまっていると、その柔軟性が失われる。ゆえに、その時点の上手さは関係ない。すぐに追い越せる。
目をかけてもらったことは素直に嬉しかった。だが、今の自分。弾ける必要などない調律師。ランベールは天井を見た。
「悪いな。もう弾いていない。譜面も覚えていない」
モヤでもかかったかのように、弾けそうで全く弾けない。繋ぎ止めるものはもう失われた。
しかし、それはラシッドにとって好都合でもある。忘れることは悪いことではない。染み込んだ過去は消えることはない。むしろ今こそが最良の状態。
「それでいい。覚えて弾く音楽ほどつまらないものはない。面白いのは、作曲家の意図を取り込んだ、その人なりの音楽。今のキミは、かつてと違う花火を打ち上げられる」
「譜面覚えてないって。あとは軽く調律してもう今日は帰るぞ」
打ち上げるための装置はあっても、煙火玉がない。なら、花火は開催できない。ただ、暗く悲しい夜空を見上げるだけ。呆れたランベールは最後の仕事と帰宅の準備に取り掛かる。
「あぁ、すまないね。頼むよ。このピアノはキミに任せたい。今日はいい日だ」
きっと星占いは最高だったのだろう、とラシッドは神に感謝。明日も頼むよ、と少し上から目線でお願い。
そして花火。実は花言葉が存在する、夜空に咲く花。その意味は『口実』。また師弟で語り合うための。
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