第123話

「だが?」


 言い淀むその姿にも、迷いはラシッドには感じられない。そのまま促す。


 うーん……と唸りながらも、言葉を絞り出すランベールは、その人物の姿を頭に思い浮かべる。


「……理想とするユニゾンはある。いつもそれを追いかけて、でもすぐ離れていく。調律の世界もピアニストと同じくらい深い」


 いつか。そこに並んで、そして超える。だが、それも一歩ずつ。一気に駆け上がるなんて思い上がりはない。あくまで弾き手に合わせて。自分のエゴは完全に出してはいけない。


 本当は、今の調子はどう? と顔を合わせることが目的で、調律はオマケ程度にしか考えていなかった。まだ新人だということは把握していた。だが、今のラシッドはただ純粋に。この気持ちは『高揚』。


「……一曲弾いてみようか。試しに」


 知りたい。彼の紡ぎ出す音を、自身がどう奏でるのか。まだ本調子のピアノでないことはわかっているけど。


「いいぜ。さっきよりかは馴染むはずだ。あんたに合わせたタッチの軽さにしてある。ジャックの調整も。微調整は言ってくれ。だが、何度も言うように大きくいじることはできない。今は馴染ませることが大事だからな」


 一旦、引き出していた鍵盤とアクションをピアノに戻し、見た目としては完全にグランドピアノの形に戻す。今の時点で、注文されていた部分は解消されたはず。ランベールは一歩引いて席を譲る。


 一瞬戸惑うが、そのままラシッドは着席し、指を動かす。準備に入る。


「すごいね。そこまでできるようになったのか」


 やっぱり頼んでよかった、と再確認。気持ちの面でもスッキリとした状態でピアノに向かうことができる。今後、全てのピアノの調律を頼む回数を、院長に増やしてもらおうと目論む。


 ピアノ、クラシックの本場であるヨーロッパといっても、調律がしっかりと施されていないピアノは多い。それは音楽院でも当てはまり、かなり濁ったものも多い。特に地方音楽院は顕著である。しかし、あまり気にしていない生徒が多いのも事実。


 特に感情が揺れることもなく、ランベールは必要なことをやっただけ。むしろ、まだ始まったばかり。


「キースティックの直し方は一番最初にやる。基本中の基本だ。だが、ピアノのタッチを決める重要な部分でもある。終わりはない。固すぎれば最初のようになるし、柔らかすぎればガタついて表現力が落ちる。そこは応相談だ」


 鍵盤の深さ、弦の張り、ハンマーの固さ、その他構成する小さなひとつひとつ。全てが一番重要であり、優先順位はない。全て音に直結する。気になった箇所があれば、今まで行ってきた工程全てやり直してでも突き詰めるべき。もしそれを面倒だと思うのなら、今すぐ調律師を辞めるべきだ、とさえ考えている。

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