第122話

 ひとつ、鍵盤を持ち上げてランベールは入念にチェック。新品ではあまりないが、ブッシングクロスが個人的に気に入らない固さのことがたまにある。そういう時は、プライヤーで調整するより、クロスごと取り替えてしまったほうがいい。


「例えば同じスティックだったとしても、メーカーや型番、年数や環境などによってひとつひとつ違う。今回のもまた新しいスティックだ。似ていても全く違うかもしれない。解決法を凝り固めるな、全ての可能性を視野に入れろ。経験を積む以外に調律の腕は磨けない」


 新品ではあまりない、しかし頭にその選択肢を入れる。枝分かれした先にある最良の方法。それを当てはめる。


「……」


「なんだよ」


 質問攻めだったラシッドが急に黙りこくり、深く思考する。唐突すぎて作業中のランベールも逆に気になった。


「そっちのほうが生き生きしてるね。私としては複雑だ。巣立ったほうが幸せってのは」


 数秒経ったのち、ラシッドは声を出して笑う。教えている時は、どこか閉塞感があって。それを作り出してしまっていたのは自分のような気がして。調律師になると聞いた時は、いなくなる寂しさと共に、これでよかったと安心した記憶。


 なんだか勝手に解決しているようで、どう返したらいいかわからないランベールは、とりあえず率直な気持ちを吐露する。


「別に。どっちが、とかはない。ピアノは全て繋がっている。あんたの教えがあったから、調律をしてみようと思った。それだけだ」


 あくまで冷静に。淡々と。心に引っかかりもない。あなたのおかげで調律という道を知ることができた。感謝こそすれ、恨むことなどもってのほか。


 その大きな背中にたくましささえもラシッドは感じた。弾いていた時とは違う、誰かに頼ることを覚えたような。そんな強さ。


「……いい師匠に出会えたみたいだね」


 少し嫉妬もする。一体どんな人なのか。会ってみたい。そしてどんな風に接するのが正解か、方法があるのか。そこで初めて、自分がいい演奏することよりも、育てることに注力する楽しさを知った。


 しかしランベールの言葉はぶっきらぼう。


「なにも言葉じゃ教えてくれない、それがいい師匠なのかは疑問だがな」


 その返し方は、なんとなくだが、ラシッドが欲しかったもの。あぁ、それでいいんだ、とピースが埋まる感覚。


「ピアノだって同じだ。結果が全て。どんな過程だろうと。むしろ練習なんか全くしなくても。自分の音が奏でられたら、いい師匠に出会えたってことなんだよ。調律師はどうだい? 自分の音は見つけた?」


 聞いていなかったのか? と嘆息しながらランベールは振り向いた。


「……まだ駆け出しと言ったろ。わからない。メインはピアニスト、望む音を探るのが最優先だ。だが——」

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