第116話
まずは鍵盤と、カラクリであるアクション部分をピアノ本体から外す。鍵盤蓋は垂直に持ち上げると外れるので、とりあえず机の上へ。鍵盤横の拍子木と呼ばれる部分のネジを、ピアノ裏からドライバーで外すと、拍子木も外れる。そして横に長い口棒も。引き出す。
「ねぇ、誰か有名なピアニストとか調律した?」
作業を開始したのを見はかり、ラシッドは世間話。黙っているのもつまらない。
この人は昔からこうだ。集中したいタイミングに茶々をわざと入れる。ため息をつくランベール。
「個人情報をバラすわけないだろ。いてもいなくても」
実際はいた。だが、そんなことは口が裂けても言えない。信用問題に関わる。
しかし声の、音の抑揚を掴むのは得意。ラシッドは心を読んだ。
「いたんだね。キミはわかりやすい。で、どう? 違和感あるでしょ?」
だが深く追求することはせず、注目をピアノに向ける。そもそもの今日の目的は、新品のピアノを見てもらうこと。会話しすぎるのも悪い。
ところどころ居心地の悪さを覚えるのも事実。ランベールは言われるがまま、鍵盤をひとつひとつ確認していく。
「まぁな。若干スティック気味なところがある。工場から直送なら仕方ない。普通は気にならないレベルだが、音楽院、それも講師ともなると弾きづらさを感じるだろうな。だが新品だ。そんなにいじることはしないし、できない」
極めて冷静に。明鏡止水。心を乱されるな。調律師は才能ではなく経験でのみ成長する。培ったものを全て活かせ。
講師、という単語に引っかかったラシッド。ならば、とひとつ発案。
「キミは?」
「は?」
気になった箇所を洗い出していたランベールは、油断して変な声が出た。意見を求められることはあるが、なんのことかわからず体ごと向きを変えた。
優雅にソファーに身を預け、紅茶でも楽しんでいそうなオーラでラシッドはもう一度投げかける。
「キミは気になる? タッチの違和感。ピアニストとして」
よくピアノの鍵盤とアクションの関係性は『シーソー』に例えられる。バランスキーピンという、下から突き出たピンに長い木の棒が刺さり、そこを中心として両端に白黒の鍵盤と、アクション機構がついている、
というのが一番簡単な説明。鍵盤を押せば反対のアクションが持ち上がり、フェルトで巻いたハンマーが弦を叩く。これで音が出る。
ではその中心。バランスキーピンと鍵盤が触れ合う部分には、ブッシングクロスという繊維が嵌め込まれており、これが固すぎるとシーソーは窮屈になる。逆に緩すぎるとガタガタとしてしまうので、専用の器具を使いながら繊細な調整が必要となる。
おろしたての革製品が固すぎるように、ピアノの部品も新品だと馴染んでいないため、よくこういったことは起きるのだが。
「俺は——」
弾くには早すぎるピアノ。納品されてすぐには調律というものは基本しない。環境に馴染んでから、というほうが効率がいいため、数ヶ月空ける。その後何度も何度も調律を繰り返してやっと、思い通りに弾くことができる。ランベールは問題の箇所にひとつ触れる。
「……俺は」
指先に全神経を。集中して沈み込む鍵盤の深さを変えてみる。そして決断。
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