第115話

 ピアノについて困っているなら、それを放っておけないのが調律師。本能に抵抗しながらもランベールは口を開く。


「……新品の場合はそうだな、少し置いた後、二、三回は調律したい。新しいパーツは敏感だからすぐに変形する。弦も同様。もちろん回数は多ければ多いほどいい。音が狂う前に調律するべきだ。狂った音が標準だと思われるのは、このピアノからしてももったいないしな」


 ただ調律師として正論を述べただけ。誰でもこう言うだろう。工場から直接きたのか、それとも一旦どこかに置いておいたのかでもまた変わる。調律に『し過ぎる』ということはない。


 目を見開いて驚きを隠せないラシッド。そしてすぐに子を見守る親のような、優しい眼差し。


「ちゃんとやれているみたいだね。よかった」


「まだなにもやってない」


 自分の意見などなにも。ピアノが最良の状態で弾かれる。ランベールはそれだけを目指す。今日はそのために来た。


「まぁ、じっくり見ていってよ。あんまり触れる機会もないだろうし。エストニア。その美しさ」


 ザ・ヒドゥンビューティ。その魅力を余すことなく曝け出すラシッド。では、なにが『隠れて』いるのか?


 ピアノは使用しない時は当然ながら閉じておく。埃やゴミなどが入り込むと、それだけで音に干渉することもあるからだ。『鍵盤蓋』と『天屋根』を閉じてみと、外側の黒塗りしか見えなくなる。


 しかしひとたび、それらを開いて弾く準備をすると、美しい木目のアフリカンブビンガ材が顔を覗かせる。ピアノ随一の格調の高さを味わうことができるのだ。


 滑らかで淑やかなグランド。音は木材の質によって決まるところが大きい。その中でも高級なピアノに使用される『ブビンガ』。産地であるアフリカでは『神が宿る』とさえ崇められているこの木材は、その美しさから家具などに使用されることもあるが、伐採により数を減らしており、年々希少価値が高まっている。


 では楽器に使用されることのメリットは? まず、この木材の特徴として非常に硬く、重い。ヨーロッパ人の愛するDIYには不向きで、職人による加工以外ではほぼ不可能。時間の経過とともに徐々に暗い色調に変化し、装飾としての味わいを楽しむことができる。


 そして音質は非常に透き通っており、中音域以上の響かせ方は独特な哀愁を漂わせる。クリア且つエレジー。ハンマーの硬さゆえか、音も硬質なところが見受けられるが、その奥にひっそりと佇む柔らかさ。むしろこの奥ゆかしさも長所になりうる。


「……すげぇな。これがお手頃価格?」


 社長から聞いていなければ、ランベールは倍の値段を答えていたであろう。新品ということで音はまだグラついているが、それでもやはり見た目だけではなく、古風な『いい』ピアノ。スタインウェイなどが薔薇だとすると、こちらはハナミズキのような、シンプルだがどこか魅力のある花。音からそんな印象を受けた。

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