第114話
パリ五区。ソルボンヌ大学を筆頭に、多くの高校大学がひしめき合い、学生街として知られるカルチェ・ラタン。パリ最古の通りとも呼ばれるムフタール通りや、リュクサンブール公園などを有する、熱量を持ち合わせた中心地。
国内にはいくつも存在する音楽院。そのうちのひとつ、サントル音楽院。まるで高級ホテルのような、人が二人並んで通れるかという程度の細い廊下を進む。白で統一された壁と、温かみのあるアメリカンウォールナットの床。コツコツという足音。引くキャリーケース。目的の部屋に到着。壁同様に白い扉には『26』という数字。
重い二重扉を開け、気乗りのしない心理状態のままランベールは入室。
「……どうも」
目の前に広がる壁紙は薄い水色で、床も少し先ほどと違うアジアンウォールナット。正面の窓から見えるのは向かいの校舎。そしてソファー。二人がけの机に、グランドピアノ。
紙の資料を読みながらソファーに座る男性。顔を今、部屋に入ってきた者に向ける。
「久しぶりだね。調律師としては慣れてきた?」
手に持っていたもの、誰かの論文。青いペンでかなり修正を入れている。それをバラバラと手放した。
感情をなくした目でランベールは「やっぱりか」と呟いた。もうすでに疲れた。調律が終わった時のような疲労感に襲われる。
「……ここにはヤマハとスタインウェイしかないだろ」
と言いつつも、目はピアノを確認する。そのどちらでもない。知っていた。これがエストニア。
その目線を男性は確認。興味ありそうでよかった、と安堵。
「ヤマハはいいピアノだ。弾きやすく耐久もある。音もいい。だけど、たまに無性に弾きたくなるのがエストニア。わかる?」
長い足を組み替える。まだ年齢は三〇過ぎ、というくらいの若さ。それでいてこの部屋のピアノを自由に変更できる、ということは。ピアノ講師。名はラシッド・エルギン。女性人気は高いと自負。
いちいち返すのも面倒なので、さっさと調律を終えて帰ることに決めたランベールは、キャリーケースをおもむろに開けた。
「知らん。弾いたことも聴いたこともない。ピアノは新品か?」
まだ傷などもない。生まれたて、という印象。様々なピアノに触れてきて、そのオーラみたいなものもちょっとは見える。
突然、はっはっは、と大袈裟にラシッドは笑う。痛いところを突かれた。
「そうなるね。恥ずかしながら完全な新品を購入したのは初めてでね。調律について教えてもらえる?」
すでに先人達が弾きこみ、場に馴染んだピアノばかりだった。まっさらな新品は講師とはいえ、知識はない。ゆえに調律も兼ねて色々と聞いておこうという算段。
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