第112話

 パリ三区。アトリエ・ルピアノに所属するランベール・グリーンは、ひと息ついたのちに目線を逸らした。ここ最近、自身の調律の調子がすこぶるいい。ピタリと『ハマる』という表現が正しいか。顧客の注文する通りの調律を、自分にできる範囲で最大限仕上げることができている、という自負がある。


「……」


 そんな彼が、注文の入ったピアノメーカーを聞いた途端、聞き流すことにした。そのメーカー、そしてピアノの型番。


「もっかい言うぞ。『エストニア ザ・ヒドゥンビューティ』」


 社長のルノーが資料を読みながら報告。ピアノメーカー、エストニア。そこのサイズ一九〇のパーラーグランド『ザ・ヒドゥンビューティ』。


 様々なグランド、アップライトピアノが並ぶ店内。外からの直射日光が当たらないように、そしてエアコンの風も直接当たらないように細心の注意を払って配置され、温度と湿度は常に一定。できるだけ負担をかけないよう、そしていつでも試弾できるように調律も定期的に欠かさない。


 ちなみにパリは景観の関係上、エアコンがある建物は限られる。一般家庭にはほぼない。そのため、夏は涼を求めて人々がアトリエに立ち寄ることも。


「……エストニア」


 別に口に出してみてもなにも変わらないのは、ランベール自身もわかっている。バルト三国のひとつ、エストニア。その名を冠するピアノメーカー。


「なんだ? 今のうちにわからないことは聞いておけ」


 もうすでに調律は始まっている。経験豊富なルノーとしては、電話で聞く限りだと難しい調律ではない、と予想している。鍵盤の動きが悪い、ということはおそらくスティック、湿気で鍵盤・弦を叩くハンマー・機構であるアクションのどれかが滑らかさを失っている状態。まぁ、こればかりは見てみないとなんとも言えないし、違うかもしれない。


 が、ランベールの浮かない顔の要因は別のところにある。


「エストニア……エストニア……」


 呪文のように唱えながら、脳内で一曲奏でてみる。ショパン作曲『雨だれ』。そして今までに調律してきたピアノ。ヤマハ、カワイ、プレイエル、ディアパソン、その他たくさん。それぞれ違う音、良さ、趣で雨が降る。


 そんな姿を見たルノーだが、気持ちは把握していた。目が点になった理由も。


「エストニア、調律したことあったっけ?」


 雨が止む。ランベールは即答。


「ないです。どんな音なんですか?」


 調律したことどころか、演奏すらも。名前だけはかろうじて、程度。聞いた時、変な汗が背中を伝った。マジかよ、と。店内にももちろんない。


 記憶の隅を突きながらルノーは音を引っ張り出す。隠された美しき音。


「ある意味で幻だもんな。私だって数台、そしてここ何年も見ていない。『シンギングトーン』に尖りつつも、バランスのいい音色を持つ。それでいて他よりもお手頃価格』


 知っている情報はこれで全て。それほどまでに出会うことのないピアノ。値段以上のいい音なのにもったいない。

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