第109話

「なるほど。あのヴェロニカ・ミューエがそんなことになってたなんてな」


 アトリエでは、出迎えたルノーが詳しい話を聞く。また近々調律に行くことになるかもしれない。そのための情報は共有しなければ。調律をしばらくしなかった、大幅に調律し直した場合など、すぐに狂うことが多い。ゆえに、誰が行っても問題ないようにしておくことは大事だ。


「はい、自分も後になって聞きましたが……まさか、ですね」


 大事なものを失うヴェロニカの痛みを思うと、ランベールは絶句した。チャイコフスキー優勝まで行き着いた人物が、それを手放す。とてもじゃないが、あの場から離れて正解だったかもしれない。


「……で、この子はなんでこうなの?」


「さぁ……?」


 この子、とはもちろんサロメ。ルノーとランベールはひとまず状況整理が終わったが、アトリエに残された、この爆弾の扱いに困る。


 いつもならソファーに寝っ転がり、ロジェあたりにオヤツとコーヒーをねだるサロメなのだが、今日は日曜日。ロジェは休み。だが、それだけではなく、頭を抱えるように座る。珍しい、というより初めてかもしれない。静かなほうが、逆に怖い。


「とりあえずは、その後のことは連絡待ちです。『クイーン・ヴィクトリア』、どうなるんですかね」


 ランベールが気になるのは、あの家にあったピアノもだ。


 超がつくほどのレアなセミフルコンピアノ。しかも、あのヴェロニカ・ミューエが愛用していたとなると、どれほどの価値がつくかわからない。熱狂的なファンも世界各地におり、早すぎる引退も輪をかける。家の宝として持ち続けるか、それとも誰かに弾いてほしいと寄贈するのか。


「まぁ、寄贈するとなると、ブリュートナーの本部が、会社のいいところに展示するんじゃないかな。お金には換えられないからね。私も一度見てみたい……」


 ただのファンになっているルノーだが、調律で邸宅に行けたら……と役得を思い浮かべる。


「いや、それなら向こうもこいつを指名するんじゃないですか? 一応、すでに仕上げたことがありますし」


「なら、私は助手として。ランベールくんは他にたくさん調律の仕事あるから、そっち頼むね」


 勝手に話を進めていく二人だが、さすがに心持ちがどんどん悪くなってくる。全てはこのサロメが静かなのが悪い。


 落ち着かないランベール。さすがに我慢の限界がきた。というより、静かなほうがいいと思っていたが、騒がしくないのもむず痒い。矛盾しているのは自分でもわかっている。


「……なぁ、おい。いい加減元気出せって——」


「——かった」


 ボソッ、とサロメがなにか呟いた。


「ん?」


 聞き取れず、ランベールはさらに聞き耳を立てる。耳に神経を全て集中するように。漏らさないように。


 再度、同じことをサロメが呟く。


「玉の輿、乗ればよかった……」

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