第102話
「……」
なにかこの少女に言葉をかけなければならない気がするのだが、その言葉が全て嘘のように軽くなりそうな気がして、ユーリは口をつぐんだ。この少女というラベルの下はきっと、本当は泣きそうなほどに弱い。
喋ることで、さらっとこの空気を流してしまいたい。サロメはまた違う話に持っていく。
「スポーツでもさ、大会で優勝目指さなきゃなんない、みたいのってないと思うのよ。人数が集まらないんだったら、試合することが目標でもいいし、一回戦突破だって立派な目標。優勝なんて、決勝進んでから目指せばいい」
目の前のピアノ一台に全身全霊をかけること。それだけ。それ以外いらない。
少女の強さの源が、ほんの少しだけ、わかった気がした。一度全て捨てる。その中からユーリは、ひとつだけ、たったひとつだけ拾い上げた。
「……なら、目指したいものがある。優勝よりも」
「なにー?」
サロメは呂律も少しおかしくなってきた。そもそも、そんなに酒に強いわけではない。むしろ弱い。
ユーリが拾い上げた目標。それはとても小さくて、ささやかな。
「あなたを黙らせる演奏。それでいい。それだけでいい」
はっきりと目を見て宣言する。残りの目標は、それが叶ってから考える。
目を見開いてサロメはそれを受け止めた。酔いも少し覚めそうなくらい、攻撃的な宣言。それをまともにくらい……笑う。
「チャイコフスキーコンクール優勝より難しいわよ、それ」
そして「はい、終わり、おやすみー」と、銅マグを持ってそそくさとベンチから立ち上がり、邸宅へ戻る。
「……勝手なヤツだ」
呆れつつも、その余韻に浸るように、目を閉じる。遠雷のようだった都市部の喧騒は、まだまだ続くようだ。それもまたパリ。ここで自分は生きていく。
一方、静まり返った邸宅の廊下では、レッドカーペットに音を吸収されつつも、サロメの歩く音が小さくこだまする。向かう先はキッチン。銅マグを返却。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
誰もいないが、いたはずのソフィーに感謝。あのぼっちゃんが一からヴァン・ショーを作ったとは思えない。きっと作り置きを拝借したのだろう。
気合い充分。エネルギー補給完了。あとは寝るだけ……のはずのサロメが向かったのは、凝った金細工のタッセルを有する、アーチ型の窓辺。オスマニアン建築の板張りの床。白で統一された壁紙。偉そうな人の肖像画。天井からぶら下がる豪勢なシャンデリア。防音設備。つまり大広間。
真っ暗な部屋に入り、置いておいたキャリーケースに手を伸ばす。
「……さてと。始めますか」
そこにあるもの。ブリュートナー『モデル1』。そして……『クイーン・ヴィクトリア』。
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