第101話

 そんな冗談を交えつつも、ユーリは一切の隙を見せない。真剣に、だが、どこか弱々しい光を携えた瞳で訴えかける。


「……母やアルゲリッチ、ポリーニなどのヴィルトゥオーゾの演奏を聴くと、いやでも自分との差を痛感させられる。なにが違うんだろう、考えて考えて考えても、なぜかこの手をすり抜ける。どうやってあなたはそこまでたどり着いた?」


 その手には、指の間をすり抜けていく音の砂が見える。掴もうとしても、残ったものはわずかな残滓。


 横目でそのしおらしいユーリの姿を、サロメは捉えた。会ったばかりの頃と比べて、ずいぶんと大人しくなったもんだ。喉元を過ぎるヴァン・ショーの熱を感じながら、全て飲み切る。口を拭いながらベンチに座り直した。


「……ピアニストと調律師じゃ全然違うと思うけど」


 寒さも緩んできた。少しいい気分。暇だし話すか、と空にむかって報告する。


 そのうわごとを呟いているかのようなサロメに、ユーリは願う。


「参考までだ。聞かせてくれ」


 ……あー、やっぱ面倒になってきた、とやめたいが、期待されているようなので、仕方なくサロメはそれに応える。


「……最初っから競争してないからね。誰より上手くとか、誰よりもいい音とか。そもそも、誰が一番上手いかなんて大会もないし。世界一の調律師なんか目指してないわ」


 たまたま今の位置にいるだけ、と適当にも思える思考を打ち明けた。今、ここにいるのもたまたま。偶然。


「あたしの目標は、例えばだけど、次に叩く鍵盤を、次に回すピンを、ひとつひとつを最高のものにすること。ひとつ鍵盤が終わったら次の鍵盤を、ひとつピンを回し終えたら次のピンを。数秒ごとに目標は変わるわ」


 目が据わっているサロメ。口角も上がって、余計なことまで喋らないか自身でも不安になってきた。


「疲れないか、そんなに目まぐるしく変わると」


 それならば『このピアノを直す』という大きな枠組みとは、なにが違うのだろうか。ユーリには想像がつかない。


「面倒だと思うなら、こんな職やってないわよ」


 非常にあっさりとしたサロメの返し。面倒でもやること。やらなければならないこと。


 そうなると、またもユーリには納得のいく解答が思い浮かばない。


「ならなんでやっている。他に職なんて色々あるだろ」


 少し、強い語気と圧。それに押されたというわけではないが、アルコールもあり、アトリエの誰にも伝えていないことが、サロメの唇から溢れ出す。


「……見つけたいもの、てか、見つけなきゃいけないものがある。そのために調律師としての腕が必要なだけ。見つかったのなら、もう調律の腕も耳も無くなってもいい」


 力はない、だが、強い信念を秘めた瞳。どこにあるのか、もうないのかもわからない。『音』しか記憶にないピアノ。いつか、きっと。そう思い続けてどれくらい経ったのか、数えていない。

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