第92話

 それを思い返し、ヴェロニカは納得する。


「なるほど。細かくいじってくるな、とは思ったけど、そんなところを見てたのね」


 全ての行動になにか裏があるかもしれない。少し警戒をする。


 さらにサロメは、筋道に沿って推理を展開していく。


「手の病気ではない可能性が高い、となると他の部分。一緒に住んでいる家族ですら分かりにくい、なおかつ、普段の生活には現れにくい病気っていったらひとつしかない」


 そんなものがあるのか? 人間の体は謎が多い。完全に解明できてはいない。だが、少なくともひとつ、思い当たるものがある。それが。


「どこかしら?」


 余裕を纏い、腕組みをしてヴェロニカは答えを待つ。


 そしてサロメは、右手人差し指で自らの頭を示した。


「脳。おそらく失音楽症。あのラヴェルやシェバーリンですら患ったという奇病だ。ただ、まだ軽微なものだと思うけどね」


 失音楽症。大脳の損傷により、音に関する力が著しく低下する、脳の機能障害である。『歌うことができない』『楽譜を読み書きできない』『音が雑音になる』『楽器がわからない』など、様々だが、詳しいことはわかっていない。


 調律の音の濁り方。年齢を経ると音を聴きとる力は、高音から徐々に弱まってくる。だがそれにしても、年齢としては早すぎるし、かつて聴いたヴェロニカの音の方向性と違いすぎる。もはや劣化した、というよりも、『聴こえ方が変わってしまった』とするほうが合致する。

 

「……どうしてそう思う?」


 剛気を装っているが、ヴェロニカの唇は震えている。それは肯定を示している。


 軽微、と修飾できるのは、サロメには思い当たる節があるからである。


「このピアノとさっきのピアノの調律、まだまだかろうじてピアノとしての体裁は保っていた。息子はなにかしら気づいていたみたい。失音楽症とまではわかっていないようだけど」


 答えにたどり着いた時、それはサロメにも信じることはできなかった。だが、音が全てを教えてくれている。悲しい事実も、隠したい真実も。


「……あなた探偵?」


 少し、楽しくなってきたヴェロニカは、思わず吹き出してしまう。こんな可愛らしい探偵がいたらいいのに。もっと、鈍感だったらよかったのに。音に鋭すぎることは、時として残酷だ。


 その一瞬の緩みに、サロメも乗っかる。単純な、それこそピアニストに興味を持たない彼女でも、ヴェロニカ・ミューエという人物のピアノは、思い出しただけで心臓の鼓動が速まる。


「だからファンだって。あなたのベートーヴェンの平均律、録音だけど生涯で聴いた中でずっと一番にある。鳥肌ものだったよ。そのピアノとピアニストがここに今、目の前にいるってだけで感動モン」


 それは相手を探るための嘘、などではなく、心根からの本心。だからこそ、歯痒さを感じているのはヴェロニカだけではない。


「ブリュートナーはまず間違いなく、全メーカーで一、二を争う調律の難しさだ。性能を一〇〇パーセント引き出せるプロの調律師だって、相当限られてくる。できなくったって恥じゃないよ。そもそもピアニストなんだ」

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