第91話
しかし、伝説のピアニストに関心を寄せられたサロメは、わざとらしく謙遜をする。
「ただのファンですって。腕のいいね。握手してください」
と、自分の私利私欲に奔る。
言葉とは裏腹の自信に満ち溢れたサロメの目を見て、ピアノを少し見てもらおうかな、と気まぐれをヴェロニカは抱く。
「面白いわあなた。ならこのピアノが今、どんな状態かわかる?」
その言葉を受け、サロメは目を輝かせた。
「もちろん。最高のピアノをこれでもかというくらいに潰しまくっている、最悪の調律ですね」
ニッコリと、年相応の無垢な笑みでズバリ言い切る。
「……ずいぶんと率直に言うのね」
まさかの返しに、ヴェロニカは冷や汗をかく。だが、不思議と悪い気持ちではない。ボコボコに蔑まれたというのに。
真顔に戻ったサロメは、鍵盤蓋に触れる。
「気を使って低めに体重を教える体重計なんかないでしょ? それと一緒。現実はちゃんと教えてあげるべき」
たとえ相手が世界最高に近づいたピアニストであっても、ピアノを大事にしていないのであれば、彼女にとってはただの迷惑なエゴイスト。なんら変わりはない。
だが、逆にその割り切った物言いが、ヴェロニカには気に入った。
「原因はなんだと思う?」
他の調律師には、神経質に言葉を選ばれてばかりだったが、久しぶりに対等に喋ることができる。いや、久しぶりなのは、ピアノのことを考えていること自体、だ。
鍵盤蓋を開けることもなく、サロメは先ほど少し触っただけで大概のことは予測できている。
「単純に調律した人間の技量不足。調律したのはあなた?」
「そうよ。一応、辞めてから猛勉強したつもりだったけど、やっぱプロには敵わないわね」
悲哀の笑みを浮かべるヴェロニカだが、これも悔しさはない。当然、と自身に嘲笑する。
調律師。その誇りを胸に、サロメは遥か高みからヴェロニカを見下ろす。
「これで生活してるんでね。コンクール優勝者といえど、病気になったピアニストにできる範囲の仕事じゃあない」
そう、今のあなたでは役不足。
苦虫を噛み潰したような表情で、ヴェロニカは状況を整理する。
「……へぇ。どこで気づいたの?」
それは誰も到達できなかった答え。気づかれずに墓まで持っていくはずだった。
サロメは少し前から考えていたことを、順を追って解説する。
「息子から引退を聞いたとき、まず真っ先に病気が浮かんだ。ピアニストには多いからね。レイノー症候群、腱鞘炎、フォーカルジストニアなどの手の病気が大半。妊娠出産でもホルモンバランスは崩れて、こういったものになりやすくなる。でもさっき握手した時、その症状は見られなかった」
握手にも実は意味があった。調べるということも兼ねての実行。九割はただのファンとしてだが。
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