第90話
待っているのも暇なので、自分からお迎えにあがることを決め、大理石でできた階段を上がる。そこからは先ほどと同じように、ひとつひとつドアを開け、中の確認。予想が正しければ、どこかにあるはず。そして、それは八番目のドアの向こうにあった。
「おっ……いや、まじか、これ」
目に入ってくるものは、壁に埋め込まれた本棚。なにやらビビッドなイエローが眩しいソファー。ペルシャ絨毯。そして、深く刻まれた木目が美しいセミグランドコンサートピアノ。
「いやいやいやいや」
メーカーはブリュートナー。なんだこれは? あたしにもわからないピアノがあるのか。
「ははっ」
笑うしかない。見たことないほどの威圧感。大きさでいえば先ほどのフルコンのほうが大きいのだが、オーラのようなものがさらに感じ取れる。それは弾いていた人物のものが乗り移ったか? なんにせよ、弾かれて成長した、完熟のピアノ。
おそるおそる鍵盤をひとつ、押してみる。基音となる『ラ』。四四二ヘルツで取るべき音。それを聴き、サロメは確信した。
「……やっぱりね。こいつはあなたが調律したのかな、ヴェロニカ・ミューエさん」
振り向くと、そこにはカジュアルなパンツに白シャツ、ノーカラーの紺のジャケットを着た婦人。首を傾げて考え込んでいる。
「どなた? 主人が呼んだ調律の方? だとしたらこの部屋のピアノじゃないわ」
ヴェロニカはサロメに近づき、鍵盤蓋を閉じる。今は必要ない。いや、これからも。
しかしサロメはそのピアノを、様々な角度から吟味する。時には下から、時には横から。そして、ヴェロニカのこと。
「インディアンローズウッドのセミフルコン。これを生で見れたこと、一生自慢できるね。伝説のチャイコフスキーコンクール優勝者に会えたのも」
そして、不敵に笑う。
驚嘆しつつもヴェロニカは喜ぶ。こんな若い子が知っているなんて、と。
「よくご存知ね。いかにも、もうだいぶ昔の話。ブリュートナーの倍音の輝きは格別よ。一度弾くと、もう他のメーカーには移れない。それほどの衝撃だったわ」
「それでついたあだ名が『ブリュートナーの女帝』か、たしかに今まで色んなピアノを見てきたけど格が違う。『モデル1』も名器だとは思うが、こいつは驚いた。特に裏側の支柱部分、赤ブナ材をパイン材で挟んで三層構造になってる。強度と響き、湿度管理に至るまで見えないとこまで凝ってるね」
サロメは感心したポイントを挙げる。音色以外のそういった部分でも、このメーカーは秀でている。だが、最高のものを使っているからこそ、余計に技術者の能力が試される。
同様にヴェロニカも、目の前の少女に敬服する。
「『モデル1』も同じよ。でもそこに注目したのは、あなたが初めて。何者? ただの調律師ではなさそう」
少し、興味が湧いてきた。今までに何人か一流の調律師が触れたことはあったが、弦や響板より支柱をまず見た者はいなかった。つまり、ピアノについての深い知識を持ち合わせているだけではない、ということ。
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